新求道期間の道

教皇パウロ六世と教皇ヨハネ・パウロ二世の演説による 序(*)


 1976年7月7日(水)の演説で教皇パウロ六世は次のように語られた。 

 

 “過去数世紀間にわたってなされた全ての働きは、聖なる建築家である神との協力から我々を免除するものではありません。むしろ過去のそのような働きは、私たちに次のように呼びかけています。つまりそれを忠実に保持するだけでなく、また消極的な伝統主義に留まるのでなく、人間生活の絶えざる変革に反対するのでも勿論ありません。むしろ、それは、我々に再びそれを白紙から始めるように呼びかけているのです。教会の真正な歴史が現在、未来の世代のために、積み重ねてきたものを思い出し、それを熱心に保つよう求められています。にも拘らず神の建物である教会が、天の頂に至るまでの冒険的挑戦を今日なお始めなければならないように、この建物は世の終わりまで新しい働きを求め、且つまた、労多く、しかし新鮮で非凡な建設を要求していることを忘れないで下さい。” 


 同じテーマについて同年8月4日(水)に於いても次のように語られた。 

 

 “今日現代においては、教会を心理的面からも司牧的面からも、今、新たに始まったと同じように、教会の建設を今日再び手がけることが必要です。” 


 この言葉は深いインスピレーションを受けた言葉であり、主が我々およびこの道に招かれた他の人々を通してなさっている事実をよく現わしています。つまりご自分の教会の建て直しの一助として。
 最初の使徒たちは小さな福音的チームに分かれて会堂を巡り歩き、神はご自分のしもべイエズスを復活させられたという、良い便りを宣べ 伝えました。私たちは人殺しを赦すように頼み、私たちが死に定めたこの方を神は復活させられました。すなわち抵抗せずにご自分を死に渡され、悪人に逆らわないで、ご自分の敵を愛し、“彼らは何をしているのか分からないのでお赦し下さい”、と願われたのです。また、ご自分の愛が死を超える程のものであることを示すため十字架の苦しみに入って、他人から受けた悪に自らの体をお任せになったほどのお方、更にまた私たち人間が彼の生命を奪ってもなお愛しつづけて下さつたお方を神は死からお甦らせになりました。このお方は今日、私たちのどんな罪をも赦すために生きていらっしゃるのです。
 このような愛し方を持つ唯一の真理であるキリストを神は死からお甦らせになりました。使徒たちの中に現存された彼キリストを神は今送って下さるのです。これは各時代にわたる世の人々を回心に呼びかけるためです。何故なら、いつの世でもこのような愛し方、苦しみのしもべ、このような小羊、このような悪に逆らわない態度は愚かなこと、馬鹿げたこと、狂気の沙汰であると思われるからです。我々人間すべてが人殺しを赦すように頼んで、(使3:14)真理は逆なことだと言っています。すなわち、暴力、戦争によって正義は守らねばならない、律法は力づくで守らねばならないと言うのです。律法を適用することは当然なことであると言っています。私たちがいつも思っていることは、自分の正義、自分の律法が真理であり、その真理の名において愛そのものを殺していることになったのです。いつも、他人を裁いて最も近いもの(奥さん、主人、子供、兄弟)から始まり、目上の人にまで裁きを及ぼすのです。私たちは次のようなものが愛であると言っています。すなわち、他人は私を愛すべきである、他人は私の思うままになるべきだ、と。そうでなければ私達は他人を認めない、また認めることは出来ない。もし、認めるなら、私が悪、だと思っていることに私自身加担することになると思うからです。


 

 “神は罪を知らなかったお方を、私達のためにとなされた。”(IIコリ5:21)

 “アブラハム、イザク、ヤコブの神、私たち祖先の神はご自分のしもべイエズスに光栄をお与えになりました。あなたたちはそのイエズスを引き渡し、そしてピラトは彼を赦そうと決めていたのに、その面前であなたたちはそれを拒んだのです。あなたたちは聖なる方、義なる方を拒み、一人の人殺しを赦すようにと要求したのです。あなたたちは命の君を殺しましたが、神は、その方を死者の中からお甦らせになりました。私たちはそのことの証人であります。”
 “兄弟たちよ、あなたたちは、かしらと同様に無知のためにそうしたのだと私は知っています。しかし、すべての預言者の口を借りて、あらかじめ告げておられたキリストのご苦難のことを神は実現されたのです。だから、あなたたちの罪が消されるように、悔いて心を改めなさい。”(使 3:13〜19) 


 このような使徒たちの宣言を聞いた人々は回心して、彼らに“兄弟たちよ、私たちはどうすればよいのですか?”と聞きました。 


 

“悔い改めなさい、おのおの罪の赦しを受けるために、イエズス・キリストの御名によって、洗礼を受けなさい、そうすれば聖霊の賜物を受けるでしょう。”(使2:37・38)  


 初代教会で洗礼を受けるということは、ただ魔術的あるいは瞬間的なことではなく、カテケジス、典礼の祭儀、入門の典礼、または調べ、秘跡的しるし(塩、白い衣など)によって、信仰の入門まで長い道を通って求道者は導かれました。
 生者と死者を裁くために来られるヤーウエのしもべを信じるように教えられ、つまり御父を信頼しつつも実生活の中においては悪人に逆らわないこのしもべの態度を全く否定している自分の事実を認め、罪を告白してイエズスの十字架にのみ浸るように教えられました。この十字架への浸しは水の浸しによって、しるされたのです。この水がイエズスの死のシンボルです。父と子と聖霊の名によって水の中に人間の死の体を残す、すなわち命の君を殺す人間を残して聖霊の力によって、キリストと共に甦るためです。回心するため、考え方を変え 、無償で新しい人間をまとい、絶え間ないメタノイア(回心)に歩むように招かれます。従ってキリスト者は“道の人間”であると呼ばれ、キリスト教そのものは“道”と言われました。(使9:2)
 このようにして使徒たちは教会を建てました。信仰への懐妊の道を通ってキリスト者は上からの神の霊を―――この霊こそは敵を愛しうる唯一の霊―――をまといました。こうして、神が彼らにされた救いの働きは、愛の具体的な共同体において見えるものとなりました。復活したキリストの御体であるこの共同体において全世界の人々はコイノニア(心の一致)に達するのです。つまり“私があなたたちを愛した通り”(ヨハネ13:34)という新しい愛し方です。このような愛し方によって“人はみな、あなたたちが私の弟子であることを認めるだろう。”(ヨハネ13:35)すなわち十字架にのぼる程の愛、敵への愛です。
 今こそ悪に逆らわないことが可能になりました。何故なら悪はキリスト者に対して、もはや力がないからです。キリストが甦られて罪と死が滅ぼされています。キリスト者はキリストと共に復活しているのです。彼らが敵を愛し、悪に逆らわないたび毎に、すなわち他人の罪によって(奥さん、子供、社会など)自分自身を十字架に縛る毎に終末を現存させるのです。世間の人々に疑問を投げかけ、復活しているキリストが彼らに生きていることを示します。 


 

 “常にキリストの命が私たちの体に現われるようにと、イエズスの死のさまを自分の体に帯びている、イエズスの生命が死ぬべき私たちの体に現われるように、こうして死は私たちの中に働き、あなたたちに命が働く。”(Uコリ4:10〜12) 


 教会の創立はおもに三つの時期に行われたと言えます。
 1)旅人の使徒たちからのケリグマの宣言、生者と死者を裁くために来られる人の子としてのヤーウェのしもべのお告げ、すなわち唯一の真理としてのキリストの十字架のお告げと宣言、悪人に逆らわない態度の宣言、つまり敵に対する愛の宣言、従ってこのしもべの回心、その呼びかけ、根本的な生活の切り換えの呼びかけ、“何をすればよいでしょうか……洗礼を受けなさい
 2)この良い便りを受け入れて、カテケジスと入門の典礼によって洗礼まで導かれる人々はカテクメナトスと呼ばれる回心の道に入って洗礼を受けました。
 3)求道期間の段階をこえることにより、神に呼ばれていることが明らかになり、すなわち聖霊を頂いてそれに強められ、自分の歴史の主に誠実に従うことが出来ました。復活したキリストの、眼で見える体として完成されました。このようにして洗礼を頂いた人々は眼で見えるキリストの体になって、その体は各時代に真理を宣言するという御父から頂いた使命を果たしました。このようにキリスト者の共同体すなわち教会をつくり、その中でその共同体の使命を果たすのに役立つカリスマを頂きながら、歴史の中を歩み続けることが出来たのです。この第三の時期にはすでに教会が眼に見える組織的な体として現われて来ました。まず、司教につかさどられるプレスビテリのコレジウム、旅人預言者、デイアコニ(助祭)の奉仕、更にはおとめ、やもめ、教師などなど、みんな十字架にのぼる程の愛、カリタスに包まれて、この世に新しい事実よい便りとして愛である神ご自身を示していました。 


 この序の始まりのパウロ六世の言葉に戻れば、現代世界の史的挑戦に応じ、現在の教会が“新らたに始まる”建て直しの必要さに答えるために、次のようになすべきと思い、まず12年前から牧者と協力一致して私たちが実際にやってきていることは次のようなものです。


 1)旅する使徒によってケリグマを宣べ伝えています。
 2)よい便りを受け入れる人が信仰まで導かれる懐妊の道、回心の道、すなわち求道期間を小教区の中に開いています。
(★)
 3)小教区が世俗的世界の中で救いの秘跡として輝くために、復活しているキリストの体として現われるキリスト共同体を小教区に開いています。 

 新求道期間の道についてのこの短い序がケリグマを中心にしたのは、教会を建て直す事について話しているからです。つまりこの建て直しは建物の親石であるキリスト,十字架にかけられたキリストの上にしか出来ません。

 

 “ユダヤ人は奇跡を求め、ギリシャ人は知恵を求めている。ところが私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝える、それはユダヤ人にとってはつまずきであり、異邦人にとって愚かである……。
 私は神から賜った恩寵に従って、思慮深い建築士として土台を置き、他の人がその上に建てた。しかし皆は、どういうふうにしてその上に建てるかに気をつかわなければならない。”(1コリ1:22、23,3:10) 


 世紀を経て常に生きてきた教会は今日私たちを希望と約束の時に生きるように招いています。第二バチカン公会議は、教会を神の国として、救いの秘跡として、国々の中に輝く光として私たちに再び発見させ、宣教への使命の緊急さを明らかにしています。異教の世界に宣教するべく生まれた教会は、その胎内に多数の国民が流入するのを見て来ました。現在の歴史的時点に於いては、反対の現象つまり世俗化しつつある社会に直面しています。
 私たちに与えられたこの世代、私たちがいま、置かれているこの世代、矛盾と暗闇に満たされていると同時に教会におられる聖霊の働きに養われて、希望と自由の可能性に満たされているこの世代に、私たちは新しい勇気をもって教会の宣教的冒険に再び取り組むように呼ばれています。“だから、あなたたちは諸国に弟子をつくりに行き、父と子と聖霊の御名によって洗礼を授け、私があなたたちに命じたことをすべて守るように教えよ、私は世の終わりまで常にあなたたちと共にいる。”(マタイ28:19,20)
 今日、教会は、キリスト教に代わって他の政治、文化を選んだ、あるいは教会を離れ、教会を捨てた階級か、社会の一群、また世俗化されている、あるいは無神論者として告白する国々の前に立っています。現代教会は新しいデイアスポラ(離散)に向かっているような気がします。私たちは巡礼者として一番根本的なこと(ただ必要なものだけを荷物にもって)歩むように呼ばれています。すなわち、その荷物は洗礼によって無償で受けた新しい人間が頂く我らの主イエズス・キリストの十字架です。神の子! 律法的だけでなく事実的に神の子、何故なら神は愛であるから。愛によって神が人間のなかに生きておられるからです。ごらんなさい、どれ程お互いが愛し合っていることか!
 現在、我々の巡礼で運んでいるこの素晴らしいものは何と僅かなものであることか! 私たちは、洗礼の水の中に自分の古い人間を残しました。この古い人間を、十字架につけて滅ぼしたキリストは、私たちの罪の体を脱がせる力をご自分の教会に与えて下さったからです。このように聖霊により復活させられたキリスト、また兄弟を愛することなしに生きることが出来ないキリストを帯びて我々は一つの民、一つの共同体としてディアスポラに向かって歩むのです。 


キコ・アルグエリョ 

 (*)1976年12月 ローマにおいて新求道期間センターから出版された新求道期間より。 

 (★)新求道期間は現代教会の司牧的必要さに答えて、洗礼を受けていながらまだ実際に信じていなくて教会に来ない人のため、教会に来ても日常生活において、信仰の証しを見せる力のない人のため、教会から遠ざかっている人、また無神論者のためにも、信仰を育む歩みを開いています。
 1974年5月8日の謁見において、教皇パウロ六世は私たちに、初代教会に行われた洗礼以前の準備の期間によって得られた信仰の深み、また信仰の成熟の効果を、現代洗礼以後刷新し得るためには新求道期間の道は適切な手段であると、次のようにおっしゃいました。“洗礼以前か洗礼以後か、いずれでもよい、大切なことは、あなたたちは事実キリスト教生活の正統性、完全性、一貫性、誠実性を見つめているということです。”