新求道期間の道

教皇パウロ六世と教皇ヨハネ・ パウロ二世の演説による




今日の世界


 今日の世界は“耳が聞こえない”ですから声を高くあげる必要がある。分からせる方法を見つける必要、伝えを強いる必要があります。みんなを新しい型のスクールに呼び入れる必要がある。
(1977年1月12日 新求道共同体に対する教皇パウロ六世の謁見より)
 
 現代人の心は洞察出来、また世の人々の心の底を見抜き得る人は、彼らに不平、不満 があり、それらに応え得る真理に基づくことば、善に基づくことば、つまり人生の意義を教えることばが、いかに必要かを悟るでしょう。
(1977年1月12日 新求道共同体に対する教皇パウロ六世の謁見より)

 迷っている人達に出会いに行かなければならない。彼らはいら立っていて、こんなに残酷で、こんなにバラバラで土台がなく、人間行動の良い基準がない。だから彼らに出会いに行く必要がある。そして彼らに、ごらんなさい、これが道であると叫ぶ必要がある。
(1977年1月12日 新求道共同体に対する教皇パウロ六世の謁見より)

 私たちの生きているこの時代には根本的対決が感じられ体験できます:つまり信仰と反信仰、福音と反福音、教会と反教会、神と反神、もしこう言えるならば……。私たちの時代には妥協のない根本的信仰を再発見する必要があります。根本まで生かされた信仰、根本にまで果たされた信仰、根本的に悟った信仰、このような信仰こそ私たちには必要です。おそらくあなた方の体験はこのような方向づけの中から生まれ、根本的、福音的に正しい改革へ導くことが出来ると期待しています。
(1980年11月2日 教皇ヨハネ・パウロ二世 カナダ人聖殉教者小教区にて)



今日の新求道期間  


 新求道共同体……この名は昔洗礼を受けるために準備した求道者を思い出させます。現在このようなこと(求道期間)が欠けています。何故ならキリスト者は子供の時に洗礼を受けるからです。初代教会の慣習、つまり洗礼に真面目に入る準備が欠けている、洗礼が既に出来たものとして与えられるが、成熟されたものではない。新求道共同体の運動は私たちにこの欠けているものを埋めようとしています。
(1979年11月18日  教皇ヨハネ・パウロ二世 スピナチェート福音史家聖ヨハネ小教区にて)

 初代教会において、求道者はとても大切にされていました。彼等の信仰のため教会が、その時代にしていたことを今、新求道共同体がやっているのだと私は思います。
(1980年2月10日 教皇ヨハネ・パウロ二世 聖ティモテオ小教区にて)


“求道期間”という言葉は洗礼と深くつながれている。つまり求道期間は洗礼のための準備期間でした。現代の洗礼は少なくとも教育の面でも広さにおいても、その段階、過程がありません。そしてこの人達は“洗礼の前に出来なかったことを、洗礼の後でやりましょう”と言います。
(1977年1月12日 新求道共同体に対する教皇パウロ六世の謁見より)


 恩寵ではこと足りなかった。恩寵は種火をつけただけでした。それが後で人生に広がる輝く火になるために、聖アウグスチヌスはこれについて、ひとつの勧めをしています。“洗礼前に出来なければ求道期間を後にしましょう。”つまり、その教育、養成すなわち、教会の一員になるべき養成を洗礼後において完成しましょう。
(1977年1月12日 新求道共同体に対する教皇パウロ六世の謁見より)


 キリスト的再生の秘跡である洗礼が初代のキリスト教が持っていた意識と習慣に、もう一度戻らなければなりません。
(1977年1月12日 新求道共同体に対する教皇パウロ六世の謁見より)


 ……あなたがたは洗礼の準備期間を後にもってきます。:敢えて言えば、洗礼前か洗礼後かは二義的なことだと思います。あなた方は事実キリスト教的生活の正統性、完全性、一貫性、誠実性を見つめています。
(1974年5月8日 教皇パウロ六世の謁見より)


 生まれたばかりの子供に洗礼を授けるという聖なる習慣が事実上の行動となりました。しかし子供はどのような教育を受けたのですか? まだ社会が全く異教的時代には洗礼前の準備期間、つまり求道期間と呼ばれていた期間がありました。後に教会がその期間を短縮しました。どうしてそれをしたのか? すべての家庭はカトリックでした。すべてキリスト教的でした。社会は根本的にキリスト教的方針をとってきたからです。しかし、今の社会は多元的です。矛盾に満ちている、福音に対する妨げが多い今日の社会的雰囲気の中では、洗礼に至る方法、つまりキリスト者的生活の入門は、洗礼後にする必要があると言っています。これが、あなた方のやり方の鍵です。
(1977年1月12日 新求道共同体に対する教皇パウロ六世の謁見より)


 洗礼を受けた人が、頂いた秘跡の計り知れない恵みを悟り、再発見し、重視し、その 恵みに積極的に応える必要があります。世界中にはたくさんの受洗者がいるのは確かで す。この受洗者の中で自分の洗礼の意識、洗礼を受けた事実の意識だけではなくて、洗礼を受けたということは一体どんな意味があるのか、洗礼というものはどんな意義を持っているのかを自覚している人は一体幾人位いるのでしょうか?


洗礼の再発見

 なお、洗礼を通して信仰を発見できる歩み、あるいは道とはこの道です。つまり私たちにキリストが教えられた道、福音に示された道がこの道です。私たちの歩みは根本的に次のようなものです。つまり、洗礼の神秘を発見する、その内容すべてを見出してキリスト者であるとは、信者であるとは一体何であるかをそれによって見出すことです。私たちの心の中で、魂の中で、人間性の中で、人格の中で働かれる聖霊に秘跡が道を開きます。聖霊は私たちを再創造し新しい人間をつくります。これです、この道、信仰の道、再発見された洗礼の道は“新しい人間の道”であるはずです。
(1980年11月2日 教皇ヨハネ・パウロ二世 カナダ人聖殉教者小教区にて)


 あなた方は共同体の中で一致して、あなた方の洗礼とキリストに属する結果との豊かさを理解し、また深めようとつとめていることを、私は承知しております。
(1974年5月8日 教皇パウロ六世の謁見より)


 洗礼を自分の存在、自分の実生活の中で体験するのはもっと素晴らしく、もっと偉大なことです。つまり一般的に教会の秘跡としてだけではなく、私の洗礼、私の日常生活にあらわれる出来事として、またイエズス・キリストによって天の御父が私に下さったプレゼントとして体験すれば、洗礼は新しい命の泉、つまり私の中にある神性の生命の泉になります。
(1982年3月7日 教皇ヨハネ・パウロ二世 無原罪の聖母小教区にて)



共同体として


 みなさんは実にこの事を共同体の中で行い共同体の中で生きています。従って、これは決して孤独な道ではなく共同体の道、相共に歩む道です。どうか皆さん、洗礼とその真の全体的意義を再発見する喜びに生きて下さい。相共に、相共に!
(1979年11月18日 教皇ヨハネ・パウロ二世 スピナチェート福音史家聖ヨハネ小教区にて)

 共同体は内面的にいつも内から出来上がります。聖霊が我々各人の奥深い存在に、個性的奥底に、霊的奥底に触れるのですが、それは個々にではあっても、別々に触れるのではありません。何故なら我々は一致して共同体に生きるように創造されたからです。
(1979年11月4日 教皇ヨハネ・パウロ二世 福音史家聖ルカ小教区にて)



道をとおして


 この目的を達するために共同体のメンバーは、初代教会で求道者が洗礼の秘跡を受ける前にいろいろの段階を通して霊的な道を歩んだように、新しいカテケジスと求道期間の準備から始めて、キリスト教的生命を懸命に生きるよう探し求めています。
(1973年9月 典礼省ノティティエ P.229)

 このことから“求道期間”という名称が陽の目を見たのであります。これは絶対に現代の洗礼のやり方の重大さを軽んじるとか、その価値を否定するということではありませんが、昔の求道期間をある意味で想起し、刷新し、一歩一歩徹底して福音に入る方法を開くということです。
(1977年1月12日 新求道共同体に対する教皇パウロ六世の謁見より)

 新求道共同体は洗礼を受けた者達に、福音的カテケジスの歩みの道を辿ることにより、また、典礼生活に参加することにより、ある意味で昔の求道期間を思い起こしなが ら一歩一歩真剣に、洗礼の秘跡の計り知れない豊かさを理解させ、それに応えさせるように、つとめています。
(1980年3月16日 教皇ヨハネ・パウロ二世 歌手たちに)



小教区の中、教区の中で


 あなた方がこんなに多くの小教区において、この意識のめざめの推進者であると知って喜んでいます。特にあなた方各自がイニシアティブにおいて、あなた方の牧者に従い兄弟的一致を保つことに深く心がけていることを知り嬉しく思います。あなた方が教会と一致しているこの心構えこそは、聖霊が建設的な働きをなさっている確かなしるしであり、それに対して私はあなた方に励ましを与えます。
(1974年5月8日 教皇パウロ六世の謁見より)

 私はこの必要性を今日の教会制度の組織(小教区、特に教区、修道会)が理解している事を見て喜んでいます。いま述べたようにこのいろいろな組織の中で小教区は根本的なものです。従って、今の洗礼に欠けている段階を追って進むカテケジスが現れてきます。すなわち“大人の司牧”です。
(1977年1月12日 新求道共同体に対する教皇パウロ六世の謁見より)

“共同体”の目的は小教区の中に宣教的教会のしるしを目で見せることにあります。その目的を果たすために、キリスト教の生命から殆ど離れた人達のため、福音宣教への道を開くように努力します。
(1973年9月 典礼省ノティティエ P.229)

 教会が重視している課題、すなわち組織だった、確固とした、段階を追ったカテケジスによって、教会共同体の信仰の建て直しに献身しているあなた方、兄弟、姉妹たちに心から挨拶いたします。
(1980年10月16日 教皇ヨハネ・パウロ二世の謁見にて)



小教区のパン種

 


 このような共同体、このようなグループこそ、実に小教区のパン種です。ここには遠くから来た人々も多く、異なるイデオロギーと関心に於いて教会から遠く離れている人も少なくありません。彼らの大部分は洗礼を受けています。しかし、過去に洗礼は受けてはいるもののその洗礼は多かれ少なかれ、彼らにとって死んだようなものとなっています。繰り返して言うと死んだと同じです! 従って同じ小教区の信者が行って、彼らの友人、隣人などに再びその洗礼を生かすことが必要です。
(1979年11月18日 教皇ヨハネ・パウロ二世 スピナチェート福音史家聖ヨハネ小教区にて)

 主任司祭その他の司祭達も我々の中の一人でなければならないと思います。そして彼は確かにその通りです……私は皆さんに言います。:主任司祭は恋をする必要がある。この主任司祭はあなた達の共同体を通して、自分の小教区全体を愛していると私は感じています。小教区はあなた達の共同体より大きいものですが、イエズスはそのようになさつたのです。彼はパン種について話しました。パン種があれば小麦粉のかたまりもある。パン種は全体の一部分にすぎないけれど、この小麦粉のかたまりには、パン種が必要です…… この小教区ではそのまま続けてください、パン種として残り、パン種として続けて下さい。
(1982年3月7日 教皇ヨハネ・パウロ二世 無原罪の聖母小教区にて)



旅人カテキスタ 


 新求道共同体のグループに出会うと、もうひとつの言葉がいつも繰り返されます。それは“旅人”という言葉です。みなさん、ご存じの通り“旅”という意味は本来、道を歩むということです、ここでは使徒的な道です。旅人という意味は道を歩みながら発見したことを運んでいく人たちの事です……実存的な道です。私たちはキリスト者であるということを確信しなければなりません。キリスト者であるということの価値、信仰の価値、自分が神の子であるということの価値、自分がキリストと相似ていることの価値、まとめて言えば、キリスト御自身が自分の中に生きているということの価値、つまり洗礼の価値を発見したキリスト者にならなければなりません。このような人だけが福音を宣べ伝えることの出来る人です。出来るということだけではなく、宣べ伝えるということに捕らわれた人、黙ってはいられない人、歩かずにはいられない人、そうした衝動にかきたてられている人になります。
(1982年3月7日 教皇ヨハネ・パウロ二世 無原罪の聖母小教区にて)

 キリスト者は、キリストの十字架、彼の復活、彼の信仰、彼の希望、彼の愛の証人にならねばなりません。これがパン種になるのです。福音の刺激をキリスト教徒でない者にまでもたらすために、あなたが私に話した如く、このパン種が自分の小教区の領域を越えてトルコまでも広く蒔かれることを望んでいるとは、何と素晴らしい事でしょう。この目的は全人類が、福音の刺激によって一致し、神の国となるために多くの人々にとってのパン種になるためです。私は、皆さん特に新求道共同体のあなた方が、我が主、贖い主なるキリストの愛の枠を広げるべく、大きな喜びと自覚を持ってこの道を歩んで下さることを望んでやみません。
(1984年2月12日 教皇ヨハネ・パウロ二世 聖ヒッポリト小教区にて) 



使徒的歩みにおける証人 


 今日、旅人カテキスタがある。教皇自身旅人の一人になった。これは教皇自身が発見したものであると思います。ひとたび、この豊かさ、この神秘(キリストの神秘、我々自身の霊的キリスト的同一性)を見出したならば他者にそれを与えずにはおられないものであります。
(1979年11月4日 教皇ヨハネ・パウロ二世 福音史家聖ルカ小教区にて)

 この新求道共同体に多くの人が心を向けるのは、そこに誠実と真理を見るから、何か生き生きしていて、確実なものがあるから、つまりこの世に生きているキリストが見えるからです。そして、ますますそうなりますように。私の使徒的祝福を与えます。
(1977年1月12日 新求道共同体に対する教皇パウロ六世の謁見より)