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新求道期間の道 教皇ヨハネ・パウロニ世トル・サピエンザのセルベレッタにある無原罪のマリア小教区ご訪問 |
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教皇様と新求道共同体の出会い(この訪問の最後でした)は主任司祭ドン・リカルドの次の話で始まった。 |
| 教皇様のお話 |
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“まず、あなた方の主任司祭について、話を始めるとよいかも知れません。そうです、主任司祭、その他の司祭達も常に我々の中の一人でなければならないと思います。そして、彼は確かにその通りです……みんなそうでしょうが、特にこの雰囲気の中で、主任司祭はみんなの中の一人です。もうひとつのことは、主任司祭が恋をするといつのは、矛盾だと思われています。しかし、私はみなさんに言います。主任司祭は恋をする必要があると。彼(この小教区の主任司祭)を見ると、恋している司祭だと分かります。彼はすべてのグループを愛しています。けれども、あなた方のグループを他のグループより少し多く愛していると思います。そうすると、ある分裂が起こる可能性がありそうですが、そうではありません。 |
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この主任司祭は、すべてを見通している人ですので、あなた方の共同体を通して、自分の小教区全体を愛していると、私は感じています。小教区はあなた方の共同体より大きいものですが、イエズスはそのようになさっているのです。彼は、パン種について話しました。パン種もあればメリケン粉の固まりもある。パン種は全体の一部分に過ぎないけれど、このメリケン粉の固まりには、パン種が必要です。 |
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求道共同体のメンバーの話を聞くと、いつも出てくる第一の基本的な言葉は発見という言葉です。科学的な発見、クリストファー・コロンブスの新大陸発見など……何かを発見する事は、いつも大変な出来事です。けれども、見える世界での発見つまり物質的世界での“発見”は、霊的な世界の発見とは比べものにならないのは確かです。従って、あなた方にとって発見という言葉は、あなた方をつくり上げるという意味の言葉です。個人的にも、それから共同体としても同じことです。これです、あなた方一人一人の洗礼を発見すること、洗礼とは神学的にも素晴らしい輝かしい事実ですから。聖パウロの手紙を読めば、本当に素晴らしい事実です。しかし、また洗礼を自分の存在、自分の実生活の中で体験するのは、もっと素晴らしく、もっと偉大なことです。 |
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つまり、一般的に教会の秘跡としてだけではなく、私の洗礼、私の日常生活に現われる出来事として、また、イエズス・キリストによって天の御父が私に下さったプレゼントとして体験すれば、洗礼は新しい生命の泉、つまり私の中にある神の生命の泉になります。聖パウロの言葉を一語一語、日常生活に適用していけば、これについてもっと沢山のことが言えます。 |
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まとめて言うと、第一の言葉、“発見”は、神の恵み、神のプレゼントですという以外、他に説明の仕様がありません。出発点であるこの信仰の発見、キリスト者であるという事実の発見に基づいて、新しい命、新しい見方が現われます。それは本当に新しい世界です。丁度今日の典礼で、キリストのご変容が宣言されたように、新しい世界、新しい世界です。この“発見”については十分話したので、これから手短かに話したいと思います。 |
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新求道共同体のグループに出会うと、もうーつの言葉がいつも繰り返されます。それは“旅人”という言葉です。みなさんもご存知の通り、旅という意味はやはり道を歩むということです。ここでは使徒的な道です。旅人という意味は、道を歩みながら発見した事を宣べ伝える人たちのことです。私たちは使徒たちの足跡を踏んで、またすべての時代のキリスト者の足跡を踏んで歩いています。キリスト教、即ち福音は、抽象的、推理的だと言われがちですが、抽象的な教えではありません。決してそのようなものではなく、実存的な道です。私たちはキリスト者であるということを確信しなければなりません。キリスト者であるということの価値、信仰の価値、自分がキリストと相似ていることの価値、自分が神の子であるということの価値、まとめて言えばキリスト自身が自分の中に生きているという価値、つまり、洗礼の価値を発見したキリスト者にならなければなりません。このような人だけが、福音を宣べ伝える事のできる人です。 |
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できるというだけでなく、宣べ伝える事に捕われた人、黙っていられない人、歩まねばならない人になります。これは当り前のことです。この動きは、内部から出て、この内からの推進力の結果として人々は動き出します。もう十分です。そうしないと長くなり過ぎるでしょう。どうか、この小教区で、このように続けて下さい。 |
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あなた方は小教区に溶け込んで、パン種になって下さい。今、言ったことの中で、一番大切なのは、小教区の中でパン種として残るということです。この小教区は大きい小教区で、2万人位の信者がいます。殆どみんな洗礼を受けていますが、この数多い人たちみんなが洗礼を発見すべきです。ですから、パン種として残って下さい。これで全部です。祝福を受けて家に帰りましょう。終わりに、歌を歌って下さい。あなた方にとって歌を歌うのは、祈ることです。例えば、私も知っている「天にまします」の歌を歌って下さい。” |
| (*) オッセルバトーレ・ロマノ紙 1982年3月8・9日(録音を含) |