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新求道期間の道 教皇ヨハネ・パウロ二世御聖体のマリアとカナダ人聖殉教者 |
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昨日11月2日(日)の午後、教皇様は、ビラ・マッシモにある、御聖体のマリアとカナダ人聖殉教者のローマの小教区をご訪問になった。教会で、パパ様は、ポレティ枢機卿、ロイ枢機卿、オスカーザネラ補佐司教および小教区共同体全員と共に、感謝の祭儀を祝われました。 |
洗礼を発見しながら、信仰を発見する道 |
1.まず皆さんに言いたいのは、あなた方は私の愛し子です。あなた方はここに、こんなに多く集まっています。大人、若者、子供、赤ちゃんなど今、司祭と共に集まっているあなた方は本当に私の愛し子です。あなた方の主任司祭のレポートを関心をもって聞きました。初めて聞くのではないと言わなければなりません。そしてこの新求道共同体の運動に対する彼の熱意を確かめる機会も初めてではありません。新求道共同体の運動は道でありながら運動です。その上、あなた方の最初のカテキスタのレポートもまた感心して聞きました。 |
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2.次の点を簡単に述べますとこうです。私たちはキリスト者の生活の始まりとしての洗礼を発見すること、つまりあがないの神秘に於いて私たちが生ける神に帰依する始まりとしての洗礼を発見することです。そこから私たちキリスト者の生活が始まらなければなりません。そして、それは一歩一歩、毎日毎日、一週一週、更に生涯の各時期に於いてのことです。何故ならキリスト者としての生活はダイナミックな過程をとるものですから。普通は赤ちゃんに洗礼を授けます。生まれたばかりの子供に、しかし彼らは大きくなります、人間は成長するものです。そしてキリスト者も同じように成長する必要があります。ですから洗礼の発見は全生涯、人生のあらゆる諸相において照らしとならねばなりません。この私たちの全生涯の秘跡的出発点、つまり洗礼の土台を通して、全生涯の秘跡的な意味が表われるべきです。何故なら私たちの人生全体は秘跡的で、洗礼がいろいろな面に影響をおよぼすべきだからです。 |
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これです。この道、信仰の道、再発見された洗礼の道は新しい人間の道であるべきです。ここで人間は自分と神とのまことの比較が出来ないという事が分かります。造られたものと創造主、神、その無限の偉大さ、あがない主としての神、聖なる神、義化する神、人はこの観点の中で自分の位置を見出そうとします。結果として、キリスト者の生活の道徳的面がもうひとつの実りとして現われて来ます。実はキリスト者の秘跡的構造を発見したときと同じ実りです。秘跡的というのは義化するものだという意味であるからです。倫理的構造を同時に見つけなければなりません。聖なるものは、いつもいいものです。悪と罪を受け取りません。勿論、聖なるもの、至聖なるものであるキリストは、罪人を受け入れるのですが、それは聖人にするためにです。これは、そのプログラムです。これで二番目の点とその結論が出ます。私たちキリスト者の生活の深みの始まりとしての洗礼を発見することによって、その結果を見つけなければなりません。それ故に私たちはキリスト者の生活において、道をー歩ずつ歩まなければなりません。道を歩まなければなりません。 |
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3.三番目にこの発見は私たちの中で酵素のようにならなければならない。この酵素は私たちキリスト者の個々の生活の実践の中で現われ、受肉し、命になるのです。ただし、この酵素は新しい人間の創造過程で、同じく使徒職的な面でも、その働きは行われます。私たちは、みな派遣されたものです。教会は使徒的です。使徒の上に建てられているからだけでなく、その体全体は使徒的精神に、使徒的力リスマに満ち溢れているからです。 |
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4.最後のポイント、実はもっとたくさんのポイントがあるようですが、これで留めておきましょう。私の愛しい子らよ、私たちの生きているこの時代には、根本的対決が感じられ体験できます。このように述べるのはこれが長年の私の体験でもあるのですから。どこにおいても影響するこの根本的対決、唯一ではなく、いたるところに現われる対決、つまり信仰と反信仰、福音と反福音、教会と反教会、神と反神、もしこう言えるならば。反神というものは存在していない、また存在し得ないものですが、人間の心の中には反神が存在し得るのです。 |
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我々の中で神の根本的否定が作られ得ます。この歴史的経験を前の時代よりも今、私たちはいっそうよく体験しています。私たちの時代には妥協のない根本的信仰を再発見する必要があります。根本的に悟った信仰、根本まで生かされた信仰、根本までに果された信仰、このような信仰こそ私たちには必要です。 |
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あなた方の雰囲気、あなた方の賛歌、あなた方の態度に溢れるその喜びは確かに南国的性格の現われでありましょうが、それが聖霊の実りであるように希望し、そうであるように祈ります。教会には喜びが必要です。喜びのそのあらゆる現われは幸せの表情です。これによって人間は自分の根本的ある意味で自然的使命に出会います。つまり人間は喜ぶために、幸せのために造られました。この幸せが見える、そして、その幸せが喜びの表現に見える。従って、道の歩みの出発が出来ます。と同時にここに、私はあなた方に言いたい。確かに、賛歌は素晴らしい、あなた方の喜びの現われも素晴らしい、しかし、この道の歩みの出発をさせて下さるのは聖霊なのです。 |
| (*)オッセルバトーレ・ロマノ紙 1980年11月3・4日と一部は録音されたものからとられた。 |