キリスト者の家庭と三つの祭壇



 現代社会は、とても深い危機の時代を生きています。その中の一つが家庭の危機です。
 ありとあらゆる方法で、家庭本来の姿が壊されそうになっています。つまり離婚によって、または、人としての道徳に反する同棲の形によって家庭が分裂され、崩壊しようとしています。
 現代の教会にとって、このことはとてもデリケートな問題であるということは確かです。 
 教会に行かなくなった家族、あるいはたまにしかごミサに行かないという、家庭の非キリスト者化が進行しています。
 家庭は、家族が一緒に祈り、模範的に愛の掟に生き、そして、永遠の命に迎え入れられる、尊重され、守られる所の「家庭としての教会」でなければなりません。
 幾人かのキリスト者と話しながら、かつてはこうではなかったことを覚えています。家庭はとても一致していたし、日曜日には皆で一緒にごミサに行き、そして、歩きながら大きな声でロザリオを唱えたし、家へ帰ったら皆で一緒に食事をしたし、一緒に祈ったし、また、司祭はもっと厳しく要理を子供たちに教えていたし、遅れることを許さなかったことなど。当時の家庭の中には、多くの「家庭としての教会」の姿を見ることが出来ました。
 今の世代において、信仰を守り、キリスト者の家庭を救うために大切なのは、三つの祭壇です。
 第一の祭壇は、私たちが永遠の命を受けるようにイエス・キリスト様がご自身をささげてくださった感謝の祭儀(聖体祭儀)です。
 祭壇とはどういう意味でしょうか。それは、生贄(犠牲)をささげる所です。「生贄(犠牲)」という言葉は、ラテン語の“sacrum facere”から来ています。羊等の動物を犠牲としてささげるだけの意味ではありません。
 “Sacrum facere”は、祝福でもあり、祈りをすること、神聖なことを祈ることです。すべての中で最も神聖なことは、
「祝福」です。
 従って、感謝の祭儀(聖体祭儀)の生贄(犠牲)は、“Sacrificium laudis”「賛美の生贄(犠牲・ささげもの)」です。
 第二番目のキリスト者の家庭の祭壇は、「食卓」です。特に、日曜日の食事です。そこでは、自然の物を食べることを通して “Sacrificium laudis” するからです。
 キリスト者は、主からいただく食物に感謝し、たたえる義務があることを忘れてはなりません。お米や野菜を成長させることは、人の業ではありません。神様が魚を創られました。このすばらしい自然を創られたのは神様です。そして、食物の中に神様の憐れみが、私たちへの愛が現れます。
 キリスト者の家庭では、各々が一人で食べる“セルフサービス”であってはなりません。皆で一緒に食べることが大切です。
 食卓を囲んで父と子の会話があり、様々な問題を話し合うことが大切です。
 寝巻のままでとか、汚れた手のままでとか、行儀悪く食卓に着くことは出来ません。品位を持って、そして愛と敬意を持って食卓を祝福するのは、家族の長である父親なのです。
 三番目の祭壇は、両親の寝床です。両親にとって寝床が二つに分かれた部屋ではなく、ただ一つの部屋を持つことは大切です。子供たちについても同じように、可能な限り、男の子と女の子のそれぞれが部屋を持たなければなりません。
 これらの三つの祭壇の上に家庭を築くことは、まさにナザレの聖家族のように、神様からの賜物である信仰を守ることなのです。
 そして、この紀元2000年代において、聖人として生きて行ける証をするようにも呼ばれているのです。


アキレ・ランザロ 神父