自分の子供たちに信仰を渡す
原元浩之


 私は七年前に山口県の岩国からこちら(福岡県福間町)に移ってきました。それは古賀教会の前・ハーン主任神父様から「小教区の司牧の手伝いや、司祭の手足となって働く宣教する家族」として来て欲しいとの要請からでした。
 私はに二十八年前、岩国教会で開かれた新求道期間の道と出会いました。その道は人々をキリストまで導く道、十字架で示されたキリストの愛まで連れていってくれる道です。
 その新求道期間の道の中で、たくさんのものを恵みとしていただきましたが、そのうちの一つは「子供に信仰を渡す」ということです。
 信仰は神から、教会から、共同体から与えられるものです。自分の力によって、努力によって得られるというものではないはずです。神様はアブラハムに御自分を啓示され、多神教徒であった彼を信仰の父と言われるところまで導かれたように、信仰は日常生活の中で具体的な神との出会いによって、芽生え成長させられるものであるはずです。
 モーセを通して、神はイスラエルの人々に「聞け、イスラエル。心をつくし、魂をつくし、全力をつくして神を愛せよ・・・」と語られ、続けて「貴方の子供たちにそれを教え込み、家にいるときも、道を歩むときも・・・それを伝えよ」と命令されました。
 このように子供たちに信仰を渡すべき最大の義務を負っているのは親です。司祭方やシスター方や、まして日曜学校の先生ではなく、親であるはずです。(もちろんその方々は親の手助けとしての役目を持っておられるのです。)信仰は信仰を持っている親から子供に伝っていくはずです。
 そうすると今、親である私に対して神様からの問いかけは「キリスト者としての生活をしているか」ということです。
 夫として、親として無責任な態度をとっていないか、自分にとって第一のものは神様なのか、仕事なのか。私の問題と苦しみはここからきています。
 私の家庭では日曜日の夕方「教会の祈り」の本を使って、子供たちと一緒に祈っています。まずテーブルにテーブルクロスをかけ、十字架とローソクを置き、皆でその日の詩編を唱え、時々ギターで賛美歌を歌い、その後福音書を開いて言葉の意味を説明しながら宣言し、子供たちに質問をします。
 例えば、目の不自由な人がキリストから癒される箇所であれば「お前たちにとってこの人は誰ですか」「お前たちとどの様な関係があるのですか」と質問をすると、最後に子供たちは「私は神の愛がどこに働いているのか見たことがない、まだ見えないので私の目は不自由です。」と答えたりします。
 子供たちに、日常生活とみことばが結び付いていること、また生活の中で働いておられる神を感じるように話しています。
 子供たちがいつも神を感じながら生きる人生を送ることができたならば、親としてこれ以上の幸せはないと思っています。