30GIORNI 1997,11

“新求道期間の道について”
キコ・アルグエリョ記者との単独会見


 

洗礼再発見の道 
新求道期間 

 新求道期間について、マスメデイアは全然話そうとせず、又教会共同体の中においてもこれについての誤った解釈が多々なされている。それにも拘わらず、新求道期間の道は21世紀の教会に深く影響を与えるであろうと予見されている。100以上の国々に約100万人の支持者と数千人の司祭がおり、世界中に神学院が数十ヵ所あり、この道を受け入れた小教区が数千にも上る。「増加率」は滅少の兆しを見せていない。初代教会の形式を取る求道期間ではあるが、現代を深く洞察し、刷新の風を教会にもたらすものとして、教会に再提案している。そのために教会の一部の人々に当惑をもたらし、この道に対して、又創始者であるキコと呼ばれるスペイン人の画家、フランシスコ・アルグエリョとカルメン・エルナンデスに対して、時には迫害が起こるような実態にさえなっている。この反対とは対照的に、教皇ヨハネ・パウロニ世は既にパウ口六世がなさったように、新求道其同体に対して公に深い理解と強い慰めを与えられ、又与え続けておられる。キコ・アルグエリョと道の責任者たちは目下、最終的な教会的位置付けと形成を考慮して、定款の作成に取り組んでいるところである。 


 新求道共同体とは何か

 キコ氏:回心への道であり、これを通して洗礼の豊かな恵みを再発見することができるのです。現在進行中の世俗化によって多くの人々は信仰と教会を捨ててしまったのです。このために多分、主が私たちを通して小教区に養成の道を開き、それによって公会議でうたわれた刷新が行われ、教会を離れた人々が帰ってくる道を開くのを助けられるのです。新求道期間の道はある種の運動ではありません。これによって、小教区を手伝い、現代人に福音宣教をするための信仰入門の道が聞かれます。教皇ヨハネ・パウロ二世が書簡の中で、「私は新求道期間の道が現代のために、社会のために効果的なカトリック的養成の道であることを認めます」、又「司教職における兄弟たち、どうぞ、司教方と共に新しい福音化のためのこの業を評価し、支持し、協力して下さる様にと切望しています」と言われたことを力説すべきだと思います。だから司教と主任司祭に対する奉仕であり、信仰を捨てた多くの人々が再び信仰を取り戻すための一つの手段です。 


 新求道期間の道と求道期間との間にどのような関係がありますか?

 キコ氏:初代教会においては、未洗者がもしキリスト者になりたい場合「求道期間“カテクメナート”」と呼ばれるキリスト教養成期間の道を歩かなければなりませんでした。カテクメナートとは、「共鳴する」と「聞く」と言う意味を持つ「カテケオ」と言う言葉に由来しています。しかし「何を聞くのですか?」。聖書の中で話される神だけではなく、求道者とは日常生活の中で語られる神を聞くことを学ぶ者です。東洋の諸宗教においては、祈りのテクニック(禅や道教や仏教自体のように)を使って超越的なものの中に逃避して欲望を越えることを強く求めています。又西洋の自然宗教では聖なるものと世俗的なものとの分離が宗教と生活の分離をもたらしましたが、キリスト教の偉大な革命はキリストの御託身、つまり神が人類の具体的な歴史の中で人となられたことです。
 教父たちが言っていることは、キリスト者を明示するのは謙遜とか、従順とか或は聖性自体ではなく、識別なのです。これなくしては謙遜も従順も聖性も有り得ないのです。何を識別するのですか?私たちの人生の中で行われる神の働きを識別するのです。悪魔の策略を識別し、ある出来事が私たちの上にふりかかるその理由と、それがどんな意味を持っているかなどを識別します。
 洗礼後の新求道期間による刷新の意味が次の言葉の中に現れます。キリストがサマリアの女に、「婦人よ、私を信じなさい。あなた方が御父を礼拝する時が来る。この山でもなく、エルサレムでもない……まことの礼拝者が霊と真理とにおいて御父を礼拝する時が来る。今がその時である。御父はこのような礼拝者を求めておられる」と言われました。キリスト教入門において求道者は自らがまことの神殿であり、その結果私たちの生活は聖性の典礼であることを発見するのです。それを如実に表わしているのが詩編の書です。
 しかし、初代教会の求道期間の道は、神のみことば、生き方の全き変化、典礼とで形成されていました。初代教会には何よりも先ずケリグマ、即ち救いを告げ知らせることがありました。この福音の告げ知らせは、パウロやシラのような旅人の使徒たちによってなされ、これを聞いている人々の中に道徳的変化をもたらしました。彼らは使徒と共におられた聖霊の助けによって生き方を変えました。その生き方の変化は秘跡によって封印され、助けられました。具体的には洗礼はこの段階を踏んだ後に授けられていました。新求道期間の道はケリグマ、生き方を変えること、典礼とその統合、つまり、この「懐胎期間」を刷新することを望んでいます。 


 何故「新求道期間」と呼ばれるのですか? 

 キコ氏:何故なら、基本的にキリスト教的養成が不足している受洗者のために提案されたからです。
 "Catechesi Tradendae"も、小教区にいる多くのキリスト者の状態は、「求道者のような信者」と明言しています。1974年に洗礼の第一段階の儀式を再検討するために、教皇典礼省が私たちを招いた時、成人のためのキリスト教入門書を準備するために多くの専門家が出席していて、秘書の Msgr.ブリーニが議長を務められました。誰かが私たちのやっていることを「カテキスタ共同体」と呼ばれることを望みましたが、最終的には「新求道期間」と呼ぶように全員が一致しました。 


 新求道期間の道の現在の状態はどうですか? 

 キコ氏:新求道期間の道は5大陸105ヶ国に広がり、800以上の教区と5000以上の小教区に約15000の共同体があります。世界中に35の教区立宣教神学院を開く手伝いをしました。子供のいる家族も、すべて(友人、家、仕事)を置いて世界でもより困難な地方の宣教のために旅立ち、その数は、現代では400以上になります。私たちを喜ばせることは新求道期間の道を通して自分の信仰を再発見し、成熱させたい若者たちが沢山いることです。たとえ必要な迫害や困難があるとは言え、これらすべてについて主に感謝します。 


 この道の家族が全てを置いて宣教に行くことを引き合いに出されましたが、何故、彼らはそうするのですか? 


 キコ氏:感謝のためです。何故なら、彼らは救われたので、他の人々も同じ救いに与らせたいからです。例えば南米の都市の周辺部には種々の新興宗教が浸透しているところが多くあります。教会のない広大な定住民のために、司教方が私たちに援助を求められました。そこで教皇様が祝福して家族を派遣されました。彼らは彼らの証しとみことばをもって、より貧しい地方へ宣教し始めるために出かけ、小さいキリスト教共同体を作るのです。その上、レデンプトーリス・マーテル神学院のおかげで、司教方は司祭を派遣して下さるので、新興宗教に行ってしまった多くの人々が教会に戻る機会となりました。例えば、エクアドルのグアヤキル市の湖上家屋に住む貧しい人々の中に、又、ペルーのリマ市に住む「新村」の中に、又チリのコロネル市に住む坑夫たちの中などに実際にこのような事実が起こっています。 


 道を実践するため、具体的にどこを選びましたか? 

 キコ氏:私たちはどこも選びませんでした。主が出来事を通して、バラック小屋から小教区へと連れて行かれました。当時からマドリッドの大司教様が望まれ、又、主任司祭の要望を通して、主が私たちに秀ねられた任務を私たちはそこで果たしました。今、教会の中でカテケシスが非常に多く必要とされていることを考えるだけで十分です。キリスト者であることがどういう意味なのか、永遠の命を受けるとはどういう意味なのか、キリストが死に打ち勝ったことはどういう意味なのかを再発見することは急務なのです。キリストに出会うことはキリストに出会わないことと同じことではありません。キリストに出会わなかった人は、自分自身に限界を定め、解答を出せない死の出来事と、絶え間なく向き合っています。何故なら、誰も死に打ち勝った人はいないからです。キリストに出会った人は天から聖霊を受けて、自分の中に永遠の命と死に対するキリストの勝利を持ち、新しい仕方で、つまり死を越えて出来事に対応できるのです。これは驚異と言わざるを得ません。私たちが洗礼を受けた時、「あなたは神の教会に何を望みますか?」と聞かれました。答は「信仰」でした。そして又、「信仰はあなたに何を与えますか?」「永遠の生命」でした。これは言葉だけで表わすことができません。永遠の命は私たちの内にあるのです。聖ヨハネは「兄弟を憎む者は人殺しであって、人殺しは誰も永遠の命をもっていない。」と言っています。信仰はあなたが兄弟を憎まないようにさせるだけではなく、敵をも愛させるのです。私たちは、「あなたはキリスト者ですか?それでは永遠の命をもっていることを見せて下さい」と言います。具体的にどのように見せられますか?どのようなことにおいてですか?この道において初代教会の求道期間のやり方そのものに従って、この吟味が段階と調べを通して徐々に行われ、今日では成人のキリスト教入門書に再提案されています。第4章に、この歩み、この段階は十分にカテケシスを受けなかった受洗者、或は堅信を受けていない人に適応できると明言しています。 


 私たちはキリスト教三千年目に入ろうとしています。この数年を生きている私たちが一番心配することは何ですか? 


 キコ氏:私たちは多量のマスメディアと科学技術と視聴覚メディアの文化の中に浸っています。統計によるとイタリア人は平均して一日に3時間40分テレビの前で過ごすそうです。アメリカのある都市などでは9時間にも及ぶそうです。もし各自が自分の見ているテレビ、映画やニュースやショーや座談会などから受ける内容をまじめに検討するなら、何が浮かび上がってくるでしょうか?人は実際に毎日何時間も続けて人間学のカテケジスを受けていて、それはつまり、たびたび神の啓示と反対のことです。
 紀元二千年のまことの挑戦「人間革命」とも呼ばれるものであって、たとえ精神的に高尚なレベルのものであったとしてもそれは私たちを襲い、キリスト教的価値観に反対のものなのです。自然、体、性欲、家族、罪などの概念はもうキリスト教の内容ではないのです。私たちの小教区において大部分の信者が日曜日だけミサにあずかる以外に何もしないという場合、教会はこれらすべてのことにどう答えるのですか? 


 問題はこの支配的考えがキリスト者の中にも、教会の中にも影響を及ぼすことです。教皇パウロ六世の友人であったフランス人の哲学者ジャン・ギトンが教皇様の彼に対する劇的な信頼について私に話されたことですが、「私の恐れを打ち明けます。反キリスト教的考えが教会に影響を及ぼしてくる危険があります。将来のある日には、過半数を占めるのではないかという恐れです」と彼に言われました。 


 キコ氏:本当です。以前ニューヨークで、このような懸念を集中的に扱うために司教会議を計画し、準備しました。オーストラリアのある司教は私たちが言っていることが正しいとする、ある一つのエピソードを私に語りました。彼はこの「支配的考え」に対して何かしなければならないと確信して、テレビの番組を通して安楽死の公認に反対しました。マスメディアを通して爆弾のように襲ってくるこの問題についてどう答えるかを検討するために教区の熱心な信徒を集めました。驚いたことに、これら熱心な信徒は全員安楽死に賛成だったのです。皆はテレビが言うように考えていたのです。この文化に対抗するカテケジスを、どこで聞くことができるのですか?もしまじめな信仰養成を始めなければ、遂には視聴覚の手段が私たちに押し付けるように、私たちも考えてしまうのは不可抗力となるでしょう。だから、この道が、又教会の新しい事実、運動として教会内で大きな価値を持つことを信じます。私たちを取り囲む世俗化に対して、今日答えることができるのは、大人の信仰だけです。 


 最近ボローニャで行われた国内聖体祭儀大会で初めて公に教会の新しい運動の創始者と責任者が集まりました。この出会いにはどのような意義がありましたか? 


 キコ氏:とても重要でした。私たちはたとえ罪人であっても教会を助けるために、聖霊が教会に吹き込まれて、行われつつある事実の証人です。世界中でした私たちの経験では、私たちはいつも他の運動グループから助けられてきたということです。大学ではコムニオーネ・エ・リベラツィオーネの方々から、小教区ではオプス・デイの司祭方フォコラーレ運動の人々から、聖霊刷新運動の方々から、また他多くの方々から助けられました。世界に対して同じ使命を持っている私たちが、多様性の中で助け合えることは豊かになるための源泉であり、大切なことです。聖パウロは、神はキリストの体を築くために、ある人を使徒に、ある人を預言者に、ある人を福音宣教者に、教師に構成されました。それは私たちは皆、完全な人であり、成熱した大人であるキリストのうちに満ちているもので満たされて、その背丈いっぱいに達するようになるのです(エフェソl2-13)と言っています。小教区で起きる困難と問題は、あるグループの信徒と幾人かの司祭とが一緒に集まる時、彼らは互いに違った人間観、違ったキリスト観と教会観を持っているからです。 


 これら教会の新しい事実、運動は少し閉鎖的で彼ら自身の中に閉じ込っていると、しばしば言われています。ある司教方は彼らの間で対立や党派心などをなくし、もっと開放的になるようにと願われました。 


 キコ氏:これは外部から来た批判で、事実と一致していないと思います。私たちは全く正反対のことを体験しています。使徒たちがイエスに近づいて彼に言った時のように「奇蹟を行なっているけれど私たちの仲間ではありません」と。そこでイエスは「彼らがすることを邪魔しないでさせなさい。私の名によって奇蹟を行なうことができる者は誰でも、私について悪く言うことはできない。私たちはこのことが真実であることを絶えず確認しています。聖霊が教会に引き起こされたことは、すべて私たちを助けるためです。私たちが分裂していると言う外部の人々に、問題があるのです。 


 教会に何か新しい事が生じると殆ど自動的にこの対立が起こるのは何故でしょうか?すべての運動がそうであったように、あなた方もそれを経験したと思いますか? 


 キコ氏:普通の反応であり、甘受すべき社会学的行動だと思います。実際に何か新しい事が生じると皆尋ねます。「彼らは一体何者なのですか?」と。確かに私たちは教会内で迫害を受けました。それはいろいろ異なった場所で行なわれ、今も起こっています。でも私はいつもロヨラの聖イグナチオの事を考えます。彼が死ぬ前に、「イエズス会のために何を望みますか?」と聞かれた時、彼は「迫害」と答えたのです。私個人について言うなら、追害は非常に大きな恵みであると思います。キリストと少し似るための唯一の点ですから。私は大きな罪人であるので、他のことは何もありません。 


 現在、この対立は減りましたか? 

 キコ氏:はい、多くの司祭方と主任司祭方がもっと良く知るようになり、立て直された家族や教会の中に見られる若者たちや神学生の召命などによって、増えてくるこれら事実の中に実りを見ているからだと思います。8月のパリにおいては、教皇様との出会いの中で、教会の新しい事実から集まった多数の青年たちがいました。この道の青年も5万人いました。大会の最後には召命大会を行いました。そこではルスチイヤー枢機卿の司式によって行われ、5千人もの若者が神学院と観想修道院に入るために、各自は立って意思表示をしました。私たち自身目の前で起こっていることに驚きました。 


 何年か前にカトリック教育の聖省の内密の書類を読む機会がありました。当時それを担当されていた枢機卿が話してくださったことは、あなた方が提出した教区立宣教神学院の設立の要望に答えるために調査をされたということでした。その時大半の専門家たちは、まとめて言えば「神学院をある運動に任せるのは危険だ」と要望を認めなかったが、教皇ヨハネ・パウロ二世はその問題を解決するために直接介入されました。あなた方に神学院を任せられたのです。今日では35ヶ所の神学院があり世界中に散在しています。どうして、又どのようにしてこれらの神学院が生まれたのですか? 

 キコ氏:ここにも種々の山来事を通して主がご自分の足跡を私たちに示されたのです。教皇様はすでに百以上の家族を世界中に、持に南米で最も困難な地方へ派遣されました。これらの家族らがキリスト者の共同体を作り始めたので、多くの人々が新興宗教から教会に戻って来ました。でも聖職者の不足のためにその極貧の地方へ司祭が行くことができないし、まだ教会の建物もないと言う難しい状態があったので、ローマ教区立神学院とともにグループを作ったり、当時カプラニカの神学院院長であったルチアノ・パコミオ院長に大変助けられ応援されて多くの試みをした後、私たちは教皇様に家族の事実を紹介することにしました。
 私たちはどんな修道会も運動も作る望みを持っていませんでした。それよりも宣教家族が出た小教区を宣教に一致させたいと思いました。このためどこへでも司祭を派遣できる教区立宣教神学院を実現するように教皇様に提案しました。この会見後、教皇様は立ち上がられて、これは良いことだと言われ、又教会のためにする必要もあるし、すべきことだと言われました。このようにして「レデンプトール・マーテル神学院」は誕生しました。
 第二に言いたいことはこれらの神学院は新求道期間の道の神学院ではなく、真に教区立宣教神学院であると言うことです。つまり、司教方がこれらの司祭に対して命令し、責任があると言うことです。この神学院の特徴は司祭方は司教によって世界中どこにでも派遣され得ると言うことなのです。このようにして司祭が不足している多くの教区の必要に答えることができるのです。摂理的に公会議文書にも次のようなところがあります。例えば、司祭の役務と生活に関する教令の10項に、国際宣教神学院は聖職者の不足を補うために開かれると言っています。
 とは言え、専門家の答えも理解できますが、混乱は「運動」という言葉にあります。何故なら、前にも言った通り、私たちはこれが運動であるとは思っていませんし、小教区に始められる洗礼後のキリスト教の信仰入門であり、その中で大人のキリスト者になることなのです。例えば、私はカテキスタとして、もう既に多くの小教区でこの道を終えました。この新求道期間の道を歩んで来て既に終わった兄弟たちは何かのグループや修道会やその他の部類の会を作るのではなく、小教区内で司教の司牧を前進させる大人のキリスト者です。共同体は今日家族の救いでもあるので、この小さい共同体はそれ自体なくなってしまわないことは明白です。ラッツィンガー枢機卿が最近書かれた「地の塩」という彼の本に、今日キリスト者が一人で信仰を生きることは非常に難しいと言われ、またキリスト者が互いに助け合い支え合えるために、小さい共同体による信仰の歩みを開くように教会に勧めておられます。
 又、教皇ヨハネ・パウロ二世からパウロ・ヨセフ・コルデス司教に宛てた手紙の中に、これが新事実であることは、新求道期間の道が求道者の仕方で大人のためのキリスト教信仰入門として認められた事実の中にあるのですから、これを修道会やグループや運動に変形しないでください。教会史の中には、神の民として無理に修道会に入ることなく、福音の精神を生きようと試みた男女の信徒が時々いました。多分、まだ時期が熟していなかったのでしょう。
 しかし、バチカン公会議後の今日、教会に依然としてある無神論者と世俗化の現状においては、未洗者と幼児洗礼の受洗者のためにも求道期間を歩くことが必要であり、洗礼の恵みを再発見する必要があります。謁見でも、「この“刷新”を生きることと促進させることは、あなた方が“洗礼後”と呼んでいる仕方で、今日のキリスト者の共同体に刷新をもたらすでしょう。それは初代教会において洗礼の準備期間に成熟させ深く究める効力をもたらす仕方として実践されていたことです。あなた方は後でするのであって、先にするか後でするかは、二次的な事と言えるでしょう。あなた方が本物で完全で真実で、言行一致しているキリスト者の生活を目指していることは事実です。そしてこれが私たちを本当に深く慰めてくれる大きな功績なのです」と教皇ヨハネ・パウロニ世は言われました。 


 この道を開くためにあなた方を招いた主任司祭が異動した後、新しく来た主任司祭があなた方を受け入れない時、どのように振舞いますか? 

 キコ氏:私たちは従います。時には兄弟たちは、既にある共同体を望まないでそれを迫い出してしまう新しい主任司祭のために長い間苦しまなければなりません。特にラテン・アメリカにおいて、司祭が二・三年で異動する修道会所属の小教区ではそうです。もしカテキスタにできることならば、兄弟たちを他の小教区に招き、道を続けるようにしますが、私たちは決して小教区と平行した教会を作りません。洗礼を再発見するという意味は先ずキリスト者の「第一番に来る事」即ち「私があなた方を愛したように」という敵に対する愛であり、共同体を追い出した人の罪を背負うことです。この意味で、私たちは兄弟たちの英雄的なところをしばしば見てきました。バチカン公会議の後に生じた解放の神学と種々の教会学は別にして、多くの司祭たちの問題は教会の中にある種々の重要なカリスマをどのように分配していいのか分からないと言うことです。 


 どのようなものですか? 

 キコ氏:教皇様が1月の謁見の際に言われたように、制度とカリスマは教会において同質であります。制度はカリスマを受け入れない時、硬化してしまい、民は嘆きます。カリスマが制度を受け入れない時、他宗派となるか、又は聖フランシスコの時代のピエトロ・バルドに見られるように分離してしまいます。 


 先に、迫害や困難について話されました。あなた方に対する多くの異議の申し立てもありました。私たちはそれらを詳しく検討することができますか? 

 キコ氏:承知しました。 

 先ずは、特に典礼についてですが 

 キコ氏:信仰の懐胎において、典礼は最も重要な役目を果たします。これを通して恵みが私たちに届き新しい人が生まれます。種々の秘跡は恵みを与え、又増やします。第二バチカン公会議には基本的な中心があります。つまり、種々の秘跡が意味するものと実現するものに完全に効果的に参与することです。例を挙げましょう。もし泉(恵みを表わす)に籠を持って行くならば空で帰ってくるけれど、もしバケツを持って行くならばいっぱいのバケツを持って帰ってくるでしよう。泉はいつも同じですが、結果は全く正反対です。多くの人々はミサに行って秘跡を受けますが僅かしか参与しません。このためにも出来るだけより完全に秘跡の豊かさを生きられるように参与者を養成するのは重要なことです。 


 あなた方は基本的により完全な典礼への参与を指していると言っている訳ですか? 

 キコ氏:その通りです。私たちはできるだけ完全に典札を生きるように試みることによって、それに参与している人々が聖化されるのです。もし若者がそこに行われていることが分からなければ、遅かれ早かれ行くのを止めます。その代わりに、それらのしるしがどのような意味を持つのかを彼らに説明しながら、そこで行なわれていることを分からせるなら、彼らが実際に参与するのを助けることになるのです。そうすれば、少しづつその青年は恵みの働きに自分を開き、秘跡の無償の恵みを受けて彼らがキリスト者となり、又聖人になるのを助けます。キリスト教はペラギウス派のように自分の意志の努力だけに頼るのではなく、ある種の解放であり、イエス・キリストが私たち一人一人のために苦しんで命を与えてくださり、私たちがその恵みを無償で受けることによって新しい被造物になることなのです。
 主の過ぎ越しの神秘に基づくことなしに、現代の若者にキリスト教的養成を与えるためにどのようにすることができますか?このためにも復活徹夜祭の豊かさを完全に生きることは基本的なことです。秘跡は意味しているものを与えるからです。キリストと共に死んでキリストと共によみがえることを教えるために浸水式洗礼、しるし、断食、徹夜について養成し、向こう岸に渡るために彼を天の「巡礼者」、過ぎ越しの人とし、又この世代の人々を天に連れて行くのを助ける者である新しい脱出(出エジプトの意)として養成します。しばしば困難となるのは、例えばスペインの大半の所では多くの人々が休暇で居なくなり、復活徹夜祭は人の少ない晩のミサに変わってしまうからです。
 若者が休暇に行かないで、この徹夜に留まりキリストと共に死んで彼と共によみがえるためにはどうしたらよいのですか?例えばフランスのある小教区では休暇から帰ってきた時に徹夜祭を祝うという所がありますが、私たちの精神は、既に多くの小教区又は私たちの小教区で行なわれているように、平行的に行なわれる徹夜祭ではなくて、ローマミサ典書が言うように、復活徹夜祭の秘跡のしるしが有するすべての力と完全さにおいて徹夜祭を刷新することです。でもこれを行なうためには一種の予備秘跡的歩みが必要です。教皇ヨハネ・パウロ二世は、共同体が「秘跡の実験室」のようであり、公会議の典礼刷新が少しづつもたらされる所として見ておられるということを一度言われました。 


 典礼の祝い方が閉鎖的である事実も、しばしばあなた方に問題を提供しました。ある司教方はあなた方に彼らの教区でミサをすることを禁じました。 

 キコ氏:私たちは閉鎖的に典礼を行なっていません。唯私たちには課程があるのです。もし誰か大学に通うとすれば、一回期、二回期などがあります。新入生は四回期には入れられずに一回期から始まると思います。私たちにも段階と期限が伴う課程があります。初代の求道期間には予備求道期間が先ずあってその後に求道期間、選びの段階、新信者期間がありました。すべての用語は段階の時期を示しています。
 問題は、約16世紀間も教会から求道期間がなくなってしまったことにあります。どう言うものであるかはもう分かりません。私たちは16世紀後にそれを刷新しようとしている者です。だから、求道期間と私たちがしていることに対して多くの点で全く知られていないのは明白です。このために時には小教区内のグループの間でも私たちのしていることが分からないために私たちに対する不信感が起きて来ます。福音書にある放蕩息子の例え話で言われることがここでも繰り返されます。兄は父親のお金を売春婦と遊ぶために全部使ってしまった弟のために、父が肥えた牛を殺したことにつまずき、家に入ろうとはせず、祭りや踊りに我慢できませんでした。私たちは福音書で、父が彼と話すために家を出て行くのを見ます。父は仲介者として、「このあなたの弟は死んでいたのに生き返った……」と言われます。北ヨーロッパのある幾つかの小教区でのことですが、例えば、信徒評議会の幾人かはこの同じ人間観を持っていません。つまり教会から遠く離れ世俗化してしまった人々は神を捨てたので、自分自身の内なるものが死んでしまって事実を認めないと言うことを指摘しておきます。このために私たちが全力をつくしてキリストを遠くにいる人々に運ぼうとしていることが分からないし、又、公会議で切望されたように(例えば、私たちがパンとぶどう酒の両形態のもとに聖体拝領を受けることを聖座から認められたように)、ミサの中にあるすべての富を活かして祝うために、日曜日のミサを土曜日の夕方に祝うことに対してつまずいているのです。たとえ私たちが彼らに、これらの人々には仲介すること、予備秘跡期間が必要であって、彼らは失われた子羊のような者ですと言っても、多くの場合、無駄になってしまうのです。
 にも拘わらず、この道の三十年間、これらの祭儀が復活の神秘を生きるための素晴らしい教育であったことを明示しました。兄弟たちが回心の本物の実を結んで死から命へと過ぎ越すのを助け、特に若者たちに対しては感謝の祭儀の力で麻薬から救われ、土曜日の夜の気違いじみたディスコから解放されたりもしました。この祭儀は何千もの司祭と修道女の召命を生じさせた泉でもあります。
 しかし又、世界中の新求道期間の道の中には、教会から遠く離れていたので弱く傷つき病気である人々がいて、良い牧者がするように御父の家につれて帰るために肩に背負わなければならないのです。だれも死体の上を通らないようにと言うのがこの道の精神です。人が新求道期間の道のためにあるのではなくて、この道が人のためにあるのです。 


 実際に、どのようにして新求道期間の道が生まれるのですか? 

 キコ氏:もしある主任司祭が道を始めたいならば、既に新求道期間の共同体がある小教区と、又は教区内の新求道期間センターとコンタクトを取るかします。そこでこの道がどういうものであるかの説明を受けて、もしそれを受け入れるなら、カテキスタたちが派遣されて来て、彼らが司祭との一致のうちに新求道期間へ導きます。カテキスタのチームは、宣教の正統性と教会性のため常に一人の司祭と、1−2組の夫婦と、青年で構成されています。カテキスタたちは司祭団と小教区の信徒評議会と、そして小教区に既に存在する他の運動のメンバー、最後に日曜日のミサの中で全信徒を招待します。これはケリグマ、つまり、主からもたらされた救いの告げ知らせの時です。既に使徒たちが聖霊降臨の後、聖霊によって変容されて小さいチームで会堂を巡り歩いて人々に良い便りを告げ知らせ、人々を回心に呼びかけていたようにすることです。それは人々に、イエス・キリストは主であり、彼にだけ救いがあるという真実とその出来事に向かわせる力を持った有力な説教でした。キリストは私たちの罪のために死に、私たちを義とするために復活されて天に昇って、私たちが聖霊と永遠の命を受けることができるように取り次いでくださるのです。恵みが届いた人に尋ねられました。「何をしなければなりませんか?」聖ペトロは「回心してあなた方各自のすべての罪がゆるされるように、イエスの名において洗礼を受けなさい。後から約束された聖霊の恵みを受けるでしょう」と答えました。これは丁度福音の宣言と呼んでいる期間で、新求道期間の道の全行程にわたって土台となる、みことば、典礼、共同体の三本の柱を発見し体験する期間です。この宣言の期間は共同体が作られる三日間の集いをもって終了し、次に予備求道期間、求道期間、選びの期間などの種々の段階が始められますが、再びカテキスタのチームが主任司祭と一致して彼らを導きます。
 彼らの兄弟たちがそれぞれの信仰に応じて成熟し始めるに従って、仕事の場、家庭内などで他の人々も信仰に魅せられて彼らも同じ道を歩みたいと願ってくるのです。このようにして第二、第三、第四……の共同体が作られ、小教区には回心の歩みをする小さい共同体の事実が現れてくるのです。この仕方で、小教区には遠くにいる人々のための司牧が開かれ、何も破壊せずに、何も強制しなくても、刷新された教会の実りが表われ、その子らは父に向かって、私たちは皆その教会から生まれたと言える程に子宝に恵まれるのです。
 30年以上もの歩みの後で、私たちにとって大きな慰めとなる一つの実りは、家族が立て直され、神から与えられる子供の命を受け入れ、家族の基本的な問題が解決される場であり、子供たちに信仰を譲り渡す場としての本当の家庭的教会を見ることです。日曜日の朝には基本的に家庭的典礼が行なわれます。この典礼において両親は子供たちに聖書を読み、「このみことばはあなたの生活の中であなたに何を言っていますか?」と問いかけます。子供たちが自分たちの生活にもみことばを具体的に照らし合せているのを見て驚きます。最後に父親と母親は自分の体験からの説明をして、皆が教皇、教会等のために祈るように招きます。主の祈りと平和の挨拶で終わります。両親はそれぞれに祝福を与えます。今日、二世代の間で対話することはとても大切なことです。
 信仰の歩みの中で作られた家族は子供たちにも信仰を伝えて行くことを知っています。これらすべての結果として教会に残っている子供たちの殆ど100%が彼らなのです。殆どいつもこれらの家族から多くの召命、神学院と修道院のための何千人もの召命が生まれています。私たちの主なる神に感謝。  


「現代進行中の世俗化によって、多くの人々は信仰を捨ててしまいました。このために多分、主が私たちを通して小教区に養成の歩みを始めさせ、それによって公会議の刷新が行われ、遠くにいる人々が帰って来る道を開くのを助けるためです」
新求道期間の道の創始者、キコ・アルグエリヨとカルメン・エルナンデスの会見
Di Stefano M .Paci