福音宣教省の総会議における
キコ・アルグエリョ氏の言葉
1983年4月19―22日 ローマ


新求道期間と福音宣教

 教皇パウロ六世は、1974年5月8日、新求道共同体を代表する司祭、信徒500名に対し、次のように演説なさった。  


 “もう一つのグループ、またもう一つのグループ! このグループは、新求道共同体の運動……ごらん下さい。この人たちは公会議の申し子です。この運動を代表する司祭、信徒のグループです。
 あなた方の出席、あなた方の活動は何という喜び、何という希望を私に与えることでしょう!
 このつとめは、あなた方自身にとって、キリスト者の使命を自覚させ、正統的に生かす手段であると同時に、他者に対して真正な、正統的、効果的、キリスト教真価の再発見、再発掘に対する刺激として、有力な証しになります。この証しなしにその真価は日常生活においては、殆ど現われず、眠ってしまい、薄められ勝ちになるものでありますから。
 いえ、いえ! あなた方は、まさに、このキリスト教の精神をもって、新求道共同体の道を歩んでいるからこそ、それらを現わしており、見せており、その真価に道徳的輝きを、まことに模範的に与えています。
 この目覚めを生かし、推し進めること、すなわち、初代教会において、洗礼準備期間中になされた信仰の成熟と深めの効果を現代のキリスト教共同体においても刷新し得ることを、あなた方は、“洗礼後” の道と呼んでいるのです。
 あなた方は、それを後にします:敢えて言うならば、洗礼前に行なうとか、洗礼後に行なうとかは、二義的なことだと思います。あなた方は正統的、みちみちた、また、首尾一貫した、即ちキリスト教の命の純粋性をねらい、見極めているというのが事実です。
 繰り返して言うと、これは、まさしく大きなメリットです。これによって、ことのほか大きな慰めを受け励まされた私は、あなた方一同およびあなた方を援助する人々、また、私に代わって、あなた方がよいおとずれをもたらす人々に幸せを祈り、豊かな祝福を与える気持になります。  


 新求道共同体 

 主は、私たちに回心の道を歩くように呼びかけられた。この道は、洗礼後、求道する私たちに信仰の絶大な富を再発見させてくれる。この道を通じて徐々に私たちは、永遠の再生の水辺まで、一段ずつ降りて行くことが出来る。こうして教会が、いつの日か授けた洗礼が、私たちの承諾によって、救いの秘跡となり、人々にとって良い便りとなることが出来るようになる。新求道共同体によって小教区の司牧の中心にキリスト教入門の道が開かれる。この道は大人のための福音的な司牧を展開する。このようなキリスト教的共同体、つまり愛による完全な一致と、愛のために十字架にまで登る程の大人の信仰によって生きる共同体は、今日、習慣的にキリスト教を生きる数多くの兄弟たちに信仰を得させ、また世俗化した世界の中に埋もれている、かくも多くの人々に、我らの主イエズス・キリストと出会う機会を与える。 


 どのようにして、生まれたか。 

 1964年、マドリッドの“パロメラス アルタス”という部落に、この道が始められました。“我々の社会の罪の結果を、自分の貧困さを”背負った人たちの生活に、実際的に身を以て参加し、その貧しさの中に、自分のキリスト教を生かすために、主に呼ばれた、キコ・アルグエリョとある兄弟たちは、その状態の中に我らの主、救い主イエズス・キリストのよい便りを音べ伝えるように、彼らから頼まれました。全く、教育、文化のなかった人たちに、福音を宣べ伝える難しさを超えて、弱さの中で、たどたどしく語られたこの言葉によって、カテケジスの形が整ってきました。即ち、力強いケリグマ、このケリグマが、このような貧しい人々の心に入るに従って、新しい事実、つまりコイノニア心の一致が生れてきました。
 私たち、みんなが驚いたことは、この言葉が喜んで受け入れられ、このような貧しい人々に、受肉し、祈りの共同体が生まれ、罪いっぱいのこの兄弟たちの祈りに応えて、彼らをあわれんで下さった主を賛美出来る、驚く程生きている典礼が、眼の前に現われてきたことです。このようにして、三年間で、私たちの眼の前にまことの信仰への懐妊の道が現われてきました。即ち、敵に対して、十字架に登って死ぬ程の愛を、築きあげた求道期間、兄弟的心の一致を実現した求道期間、徐々に教会(神の民)を創造していった求道期間、このような道があらわれてきました。 


 どのように広がったか 

 教会から離れていた、たくさんの人々を信仰へ呼び戻したしるしは小さな共同体に眼で見えるこの愛でした。このような、このカテケジスの経験を見たザモラの聖フロンティス教会とマドリッドの王たるキリスト教会の主任司祭は、それを自分の小教区にも行なうように、招いてくださいました。私たちが、眼の前にして驚いたことは、これです。即ち、前にのべた部落と異なる社会的環境であっても、その小教区に、ケリグマの宣べ伝えと、二ヶ月のカテケジスを通して、回心の道を歩き始める共同体が生まれたということです。
 そのときの、マドリッドの大司教であったモンシニョール・カシミロ・モールシーリョが、この事実を知り、熱心に支持して、この事実を始めたいと頼んだ小教区に、それを推進するようにと、自ら招き、主任司祭が中心となって、始めるように、勧めて下さいました。この事実は、マドリッドと、他のスペインの教区にも、急速に広がって行きました。
 1968年、ローマのその当時の代牧デルアクア枢機卿宛のマドリッドの大司教からの紹介状を持って、カナダ人殉教者小教区に道を始めるべくローマに来るように招かれました。このようにして最初の共同体で選ばれた旅人カテキスタの宣教によって、たくさんの教区、宣教国を含めた多くの国々、全世界にまで徐々に広がりました。 


 旅人カテキスタ 

 早くも、他の教区の主任司祭からの依頼に応じて、自分の共同体を離れて、依頼された教区に行って、新求道共同体を導入するべく、しばらくの期間、奉仕に身を捧げるという旅人カテキスタのカリスマが出てきました。
 おもに、1972年から、たくさんのカテキスタのチームが、まず、自分の国で福音を宣べ伝える経験をしてから、いろいろな国々の司教、主任司祭からの依頼を受けて、それらの国々へ出かけて行きました。
 私たちをして、主を賛美させる、もっとも大きな経験のひとつ、それは世界のたくさんのところに、福音を宣べ伝える恵みが、神から与えられているということなのです。ただ、ケリグマを宣べ伝えるだけではなく、小教区が秘跡的司牧から、福音的司牧まで移るように、少しずつ共同体的信仰への懐妊の道が現われてくるという事実です。 


 遠のいている人達に福音を宣べ伝える具体的な道 

 新求道期間の道は、司教と一致しながら、現代の小教区の組織の中に、年齢の違い、社会的立場、考え方、文化などの異なる人たちの小さな共同体の中で歩みを続けているということなので、それは自発的なグループでもなければ、カトリック者の単なる集り、あるいは霊的運動、あるいは小教区の中のエリート的グループでもありません。ただ新求道期間を通して、自分の洗礼の根本的な効果、つまり、キリスト教の生命を完全に生かし、発見したい人たちのことです。この新求道期間は、現代の洗礼を受けている信者に適応するように段階に分けている、初代教会の求道期間のようなものです。この共同体の使命は、司教シノドスで言われている宣教的教会の印と秘跡を小教区のただ中に見せることです。言いかえれば、信仰が成長すればする程、十字架に登る程のと心の一という、しるしを見せながら、無神論者を回心に呼びかけ、また教会から遠のいている人々に福音を宣べ伝えるための具体的な道を開くということです。“わたしがあなたたちを愛したように、あなたたちも、互に愛し合え、互に愛し合うならそれによって人は皆、あなたたちが私の弟子であることを認めるだろう”(ヨハネ13:34・35)“父よ、あなたが私の中においでになり、私があなたのうちにあるように、皆が、一つになるように、そして彼らもわたしたちにおいて、ひとつになるように、それは、あなたが私をお遣わしになったことを世に信じさせるためであります。”(ヨハネ17:21)  


 小教区に公会議をもたらす 

 第二バチカン公会議の光に照らされて、眼に見える復活したキリストの体を見せる具体的なものとして、新求道期間の道が教会を建てる小さな共同体によって、我々の眼の前に現われてきました。この共同体は、誰をも圧迫しないで、何も壊さないで、すべてを尊敬しながら刷新される教会の実りであり、あなた方から生まれた我々は、あなた方の豊かさを示すものだと先輩の方々に向かって言っているのです。 


 カリスマと奉仕職 

 この事実が深まるところには、各地の教会に新しい組織が見えるようになります。それは小さなキリスト共同体から成り立っている有機体のようなものです。信仰が成長するに従って教会の刷新に役立つカリスマが熟し、その刷新を手伝い、それに奉仕し、それを可能にする種々な奉仕職も生まれます。何故ならその奉仕職が、ご自分の教会を常に成長させるための手段になること、それが神様のお思し召しですから。このように使徒であるキリスト、預言者であるキリスト、奉仕者であるキリスト、牧者であるキリスト、教会とー致しているキリスト、苦しむ人に対して情深いキリスト、即ちキリスト全体を現わすいろいろなカリスマが各共同体の中に現われてきます。言いかえれば、プレスビテリ、責任者(目下、彼らのために助祭の叙階を頼んでいる)、旅人カテキスタ、各共同体のカテキスタ、おとめ、やもめ、夫婦など、いろいろなカリスマが現われてきます。 


 新求道期間の過程 

 道の精神 

 この求道期間の第一の目的は信仰への手引きと、共同体の形成にあります。共同体の成長は、そのメンバー一人一人のみことばに対する従順にかかっているので、始めはかなり不完全なものとして生まれます。しかし、少しずつお互いの欠点が現われると、その欠点のおかげで自分の信仰の足りなさも明らかになり、常その信仰を建て直す必要さを切実に感じるようになります。例えば、他人の欠点によって傷つけられると、その人をそのまま受け入れる無力が私たちの前に強い疑問符として現われます。他人をあるがままに愛することは自分自身に死ぬことです。即ち、自分の安定を失うことであり、一言で言えば、愛するとは、他人のために死ぬことであるということが分ってきます。しかし、一方で私達は死にたくありません。他人を愛するとは、無に飛び込む、つまり死に勝つということです。
 へブライ人への手紙にある通り、人間は死の怖れのために生涯、悪と悪魔に圧迫されています。イエズス・キリストが来られたのは、まさにそのためで、即ち、“死の力を持つ悪魔を死によって滅ぼし、死の恐怖によって、生涯、奴隷となったすべてのものを解放するためであった。”(ヘブ2:14)
 まことの愛は、自分自身を、他人に渡して、己れに死ぬことであるから、イエズス・キリストの死と復活によって、その死が滅ぼされていなければ、生涯、悪魔に圧迫されて死の怖れの下にいる私たちにとって、まことの愛を持つことは、明らかに不可能です。死が、私たちに対して、もはや何の力も持っていないことのしるしは、何だろうか? 私たちが、キリストと共に復活しているしるしは何であろうか? つまり、死までの愛、十字架に登る程の愛、敵までの愛、すなわち、“私があなたたちを愛した通り、”“これによって、みなが、あなたたちは私の弟子であることが分ってくる。”このような愛を頂くためには、神から生まれること、つまり、聖霊によって死から復活したキリストの新しい生命を頂くことが必要です。“私たちは兄弟を愛しているので、これによって死から生命へ移っているのを知っています。”(Tヨハネ3:14) 


 この共同体は、どこに生れるのか 

 我々が無償で受けた愛、その愛の中で復活したキリストを現存させるような共同体は、どこに生まれますか? それは小教区です。つまり、小教区は、その地域の教会が“救いの秘跡”として現われるために最適なものだと思います。共同体は、異なる組織の教会をつくったり、あるいは、今まであったものをこわしたりしないで、ただ過渡期にある現代教会の事実を、またその変化の時代をそのまま受け取って行くことになります。 


 小教区の使命 

 今日、我々、従来の信者の多数の信仰は、小児的信仰です。これは、日常生活と宗教生活の分離によって、明らかに現われています。従って、日常生活の体験で実現させる真面目な回心の道が、絶対的に必要です。つまり、神のみことばと、感謝の祭儀に導かれて、共同体の具体的な枠の中に生きつつキリストを救い主として体験し、彼らをー致させる神の国を体験し、また、平和の喜びを体験出来る期間が必要です。
 そこまで、到達するためには、彼らが生活している環境の中で、キリストを信じさせることの出来るしるしを見せる必要があります。言いかえれば、一般の人々でも、そのしるしを見て、自分の死、自分の苦しみ、また、自分の事実に眼をふさいでいる自分の状態から救い出してくれるキリストの愛を発見することが出来るしるしを、はっきりと見せる必要があります。
 “私が、あなたたちを愛した通り、お互いに愛しなさい。これによって、彼ら(周りの人・一般の人)は、あなたたちが、私の弟子であることを分って来るであろう。”“御父よ、あなたと私がひとつであるように、彼らも完全にひとつであるように、世に信じさせるために。”
 信仰のしるしは、小教区を回心に呼びかけます。つまり、この信仰の共同体の愛と一致によって、小教区全体は回心に呼びかけられます。この共同体が生まれた小教区は、良い意味で、まことの革命的変化を体験しました。従って、共同体に現われるそのしるしは、たくさんの人々に疑問を投げかけるので、教会から遠のいている人々が、その小教区の第二か、第三の共同体に、次ぎ次ぎに入って来たのが、事実です。このように一方では、今まであった小教区の組織に手をつけないで、他方ではそれと同時に、現在、信仰を深める必要さを兄弟たちに悟らせる新しい組織が現われ始めました。
 十字架に登る程の愛と完全な一致によって周囲の環境を照らし、塩味を与え、また発酵させる神の民としての初代教会の共同体に立ち戻るということです。“何と、彼らはお互いに愛し合っていることか!”という叫び声が人々の間に聞かれ、それによって人々は回心に呼びかけられるのです。  


 どのようにして、この道を開始するのか 

 ある主任司祭が、この道を始めたいと望むなら、新求道共同体が存在している小教区と連絡をとり、この道がどんなものであるかの説明を受けて、また、自分がこの道の中心になることを認めてから、その主任司祭はカテキスタ・チームの派遣を申し入れます。このカテキスタのチームは、主任司祭と一致しながら、求道期間を開始し、後々までその導きに当ります。このカテキスタのチームは、その小教区に属するすべての司祭たちと集って、洗礼後の求道期間によって福音的司牧を開始する必要さを説明します。その後、小教区のいろいろの運動のメンバーと集まり、最後には日曜日の御ミサで信者全体に呼びかけをします。このカテキスタのチームは、小さな福音的共同体として、宣べ伝えの正統性と教会一致を保証する司祭、および夫婦、青年によって成り立っています。 


 第一期:ケリグマ 

 第一期は、ケリグマです。即ち、救いの宣べ伝えです。キリスト教が人々の日常生活にどのように影 響をおよぼすかについて、直接的、実際に即した対話の形でこの宣べ伝えは展開していきます。カテケジスは次の三本の柱の上に立っています。 


みことば━典礼━共同体 

 新求道期間の歩み全体は、いつも、この柱の上に置かれています。  

 予求道期間 

 共同体が成立すると、第二部、すなわち予求道期間が始まります。“ケノシス”の時期です。不完全で罪だらけの人々と一緒に歩きながら、自己の信仰の状態を発見し、鏡で見るように、はっきりと自分の事実を悟らせられ、一人一人が回心に呼びかけられる具体的な共同体の新しい環境の中で進んで行きます。
 このいとなみにおいて、共同体に助けとなる言葉つまり、自分のまことの事実を照らす言葉が必要です。そのために聖書用語を学ぶため役立つ適当なテーマ「水・羊・花嫁」などを使って、毎週一回、神のみ言葉の祭儀が行なわれます。同時に、土曜日の晩に、日曜日の感謝の祭儀を祝うことになります。更に一人一人、みことばの体験を自由に語り、またどのように、そのみ言葉が日常生活の事実、例えば、仕事の事実、家族の事実、セックスの事実、社会生活の事実、お金の事実などを照らしたか、ということを分かち合うために、毎月、ある日曜日に集いが行なわれます。
 およそ、二年後、その共同体を世話するカテキスタは戻ってきて、求道期間の第一段階に入るための準備として三日間の集いを行ないます。司教の司式の許に、求道期間の門を開くこの段階では、自分の洗礼の第一の部分に“アーメン”と答えて、その洗礼によって受けた恩恵を成長させ、それが日常生活に現われるように洗礼の第一の部分が人々の眼の前に示されます。 


 第二期:洗礼後の求道期間 

 求道期間は二つの時期に分かれます。初めの時期においては、共同体は、み言葉、感謝の祭儀、兄弟的一致の交わりに専念しながら新求道者に警戒して花婿を目覚めて待つ乙女らのように、少しずつ努力なしに、偶像(お金、仕事、感情など)を脱ぎ捨てさせ、キリストの力を体験させながら、神を自分の実生活の中心に置くように導く。約一年後、カテキスタはまた戻ってきて、求道期間への最終的段階、および、調べを準備します。このように第一段階が開かれる門であるとしたら、第二段階では、その門が閉じられるのです。その後、カテキスタは求道者を詩編(教会の祈り)の授与によって、日々の個人的祈りに入らせます。次に使徒信経の授与と応答によって、職場、家庭に証し人となり、おもに小教区の中においては、直接的な使徒職、即ち二人一組で小教区内の家々を戸毎に廻って福音を宣べ伝えたり、また、小教区のカテケジスに奉仕したりすることなどにおいて、彼らが既に受けた洗礼によって、まことの宣教師であることを自覚させます。
 道のこの時点においては、人々に信仰を自分の子供たちに渡す責任感を起こさせます。そこで、集まりは三つの種類になるのです。即ち、子供たちが参加する家庭での集まりがそのひとつであり、次に共同体での集まり、また、過ぎ越しの徹夜の如き大きな祭の際の小教区内全共同体の集まりです。
 明けの星がのぼるまで続く、大きな徹夜において祝われる過ぎ越しの祭りが一番深い喜びであり、我々の生命の中心であることを発見しています。
 次に“アッバ、父よ”と呼ぶことを教えられる深い美しい祈リの雰囲気の中で、“天にまします”の学びと再発見によって、洗礼が我々を神の子とする事実を発見します。


 第三期:選びと洗礼の約束の更新 

 洗礼後の求道期間のこの時期が目指すところは、求道者が柔和にして、小さなものとなって、御父のみ旨に自分をまかせるまでに導くことにあるのです。つまり、常に主任司祭と一致しているカテキスタのもとに導かれて、求道者がすべてを神にゆだねて、感謝と賛美の霊性に入れることになります。このようにして、選びと洗礼の約束の更新である道の最後の部に至るよう準備されるのです。まとめて言うと、キリスト教生活の根本的三つの期間、謙遜(予求道期間)、柔和(洗礼後の求道期間)、賛美(選びと洗礼の約束の更新)を歩むわけです。 


 ナザレトの聖家族は新求道共同体のイメージ 

 ニコデモはイエズスに向かって、尋ねた、“すでに年老いている人間が、どうして生まれることができましょう。もう一度、母の胎内に入って、生まれることができるのでしょうか?”(ヨハネ 3:4)
 この言葉は、新求道共同体の精神を明らかにしています。教会の胎内に戻る、おとめである我らの母に戻る。何のためですか、彼女が我々が自分の中に持っている洗礼の種を生かし、成長させるように。私たちはこの懐妊と成長の時期を新求道期間と呼びます。教会のイメージであり、キリスト者のイメージであるマリアは、喜びの伝え、よい便りを受けます。“あなたには、メシアが生まれる”彼女がこのみことばを受け入れると、聖霊がご自分のかげで覆い、新しい人間の懐妊をし始めます。イエズス・キリストはべトレヘムに生まれるまで、少しずつその胎内で育てられます。お告げ、懐妊、誕生とナザレトの小さな共同体に隠れた生活、その中でキリストが御父に召された使命を果すための必要な年齢に達するまで成長するために歩まねばならない時期を我々も同じように歩もうとしているのです。この道のりにおいて、新しい時代に答えるため、今日の世界に奉仕するために、教会が刷新されることを確信しています。
 生命を与える霊として、神に定められ、新しい創造の初子とされたキリストが、ある人々にコイノニア、アガぺを与え、つまり彼らに注がれた新しい霊 聖霊 によってお互に愛することが出来る人々の共同体、復活した民、即ち教会をつくり、それにおいてご自分の救いのわざをこの世にお与えになります。
 新求道期間は、教会の胎内での懐妊の期間として現われます。救い主があなたに生れるという良い知らせに、マリアと同じように“アーメン”と答える人々には、みことばが聖霊の働きによって、新しい創造をし始めます。
 受胎し、養分を与え、生み、育くみ、また大人にまで、新しい人間を成長させる母として、教会が現われます。パウロは、この新しい大人の人間について、“もう、私ではなくて、キリストが私に生きている” と言っています。
 ナザレトの聖なる家族と同じように、キリストがこの共同体の目の前に現われ、謙遜、素朴、賛美に生きています。共同体がよくわきまえている目的はこれです。つまりキリストにおいて成長してから、神様に与えられたヤーウェのしもべの使命を果たすということです。 


キコ・ アルグエリョ