和解と回心”の司教シノドスの集いの際に、
キコ・アルグエリョ氏が述べた
新求道期間の道の簡単な説明

1983年10月21日 バチカン市


 これは、スペイン語で話されたものです。

 教皇聖下
 シノドスの敬愛する司教様方 


 私は、このような短い説明で、新求道共同体の道を理解していただくのは、殆ど不可能だと思います。初代教会における使徒達が行なったことを取り上げて、私なりにやってみようと思います。勿論、違いがあるのは明らかですが。
 聖霊降臨で聖霊を頂いた使徒達は、以前と違った人になり、旅人として、小さいチ一ムに分かれて、会堂を回りました。そこで、ケリグマ、すなわち救いの言葉の核心を宣言し、人々を回心に呼びかけました。“強盗が赦されるのを願ったあなた方の無知によって、はりつけられたこの人を、神は死から上げられ、キリオス、主の名、全ての名にまさる名をお与えになりました。私たちは、みなこのことの証人です。回心して福音を信じなさい。そうすれば主が天から、あなた方のために約束された聖霊が送られるのです!”(使徒言行録による)
 力強く宣言されたこの言葉を聞く人々は、イエズスは主である、彼にだけ救いがあるという事実に直面させられます。彼は、死から甦えられました。新しい生命に、永遠の生命に私たちが近づくことが出来るように、彼は死に勝たれました。使徒達の宣教の中で、聖霊の働きに触れた人々は“私たちは、何をしたらよいのか?”と尋ねます。ぺトロは“悔い改めなさい、おのおの罪のゆるしを受けるために、キリストのみ名によって洗礼を受けなさい。そうすれば、約束された聖霊の賜を受けるでしよう。”(使2、38)
 初代教会で、洗礼を受けるということは、魔術的なものではありませんでしたし、特に異邦人
(*)に対しては、すぐに授けるというものではありませんでした。それは信仰への入門ということで、後になって求道期間と呼ばれるようになりましたが、その求道期間の中で、カテケジス、入門式、調べ、悪魔払い、塩、白い衣などなどの印のもとに、聖霊による、洗礼の働きによって新しい創造として生まれさせられました。
 求道者は、あらゆる時代にわたって繰り返される神の救いの歴史に入るように教えられました。預言者ダニエルが語った“ヤーウェのしもべを信じるように、彼は人の子として、生者と死者を裁くために来られます”と。自分自身の罪(神の独り子によって示された十字架上での死に至るまでの愛に反する態度や行ない)を告白しながら、その十字架に入るように教えられました。キリストは、私たちのすべての罪のため、ご自身をお捧げになりました。悪に抵抗しないで、それどころか悪人や敵を愛することによって。
 “実に義人のために死ぬ人は少ない。しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのためにご死去になったことによって、神は、私たちへの愛を示された。”(ロマ5、7−8)
 悪人や敵や、いろいろな形で私たちを害するものを愛するというその愛は、この世にあらわれた新しい種類の愛です。このような愛はつまずきでさえあります。何故なら、世間は罪人や悪人は愛されるべきではないと信じていますから。もし、愛するならば、私たちもその罪に加わり、同時に罪人になるということですから。それに反して、私たちは正義を行わなければならない、悪人と戦って、彼らを根こそぎこの地から引き抜かなければならないと思っています。けれども、神が、イエズス・キリストのうちに示された正義は憐れみした。それは、単なる同情ではありません。イスラエルにおいて、憐れみという単語は“RAHAMIN”その語源は“REHEM”、意味は“胎”です。イエズスがニコデモに言ったように、再生する、再び生まれるということです。
 キリストの死に葬られるということは、父と子と聖霊の御名によって、三度水の中に浸されることによりしるされました。この浸しによって、受洗者は天の父から新しい良心を頂いたと信じたのです。神に抗い、生命の君を殺した罪の身体が、この良心により滅ぼされ、聖霊の力によって、新しい生命に復活させられました。彼らは神聖な衣を着るように教えられ、神の生命が彼らの中にあることを現わすためのその白い衣は、印として与えられました。求道期間の道において、絶え間ない回心をもって歩むよう教えられたので、彼らは道を歩む人と呼ばれ、キリスト教はそれ自体“道”と呼ばれていました。(使9,2)洗礼によって、彼らは教会、即ちキリスト者の共同体、即ち死を滅ぼしよみがえられたキリストの体に属するものとなりました。このことによって、彼らは徐々に、新しい相互愛をつくる可能性を与えられたのです。そして、救いはすべての人々のためであるというしるしを外にいる人々に輝かせました。“私が、あなたたちを愛したように、あなたたちも互いに愛し合え” キリストは、私たちの罪の行ないのために、彼自身を死に渡されました。何の抵抗もしないで、屠所にひかれる小羊のように。主は、私たちに敵を愛することが可能であると言っておられます。もう一方の頬を出すことが出来る。もし、誰かが持ちものを盗むなら返してくれるように頼まないということなど。ひとことで言えば、十字架につけられたキリストの愛が私たちのうちに住んでいるということを人々に示すために呼ばれています。聖パウロはこう言います。私たちは、毎日屠所にひかれる小羊のようなものである。いつでも、どこでも、キリストの生命が私たちの体に現われるようにと、イエズスの死の様を自分の体に帯びている。私たちが、死ぬことによって、この世は命を受ける。(Uコリ4、10)
 前に述べたことから、一世紀の教会における信仰の養成は、三つの根本的な期間を通じて発展したという結論を出すことが出来ます。
 第一期、ケリグマティック、力強いケリグマとそれを証明することによって(福音によれば、財布も袋も持たず、はきものも何もなし)この時期に信仰は芽生えます。
 第二期、カテケティック、またはディダスカリック、これはケリグマが彼らの日常生活の中で、個人の歴史の中で受肉するまでの長い期間です。この間にイエズスの栄光の十字架は生命の道であることを、歩みながら教えられます。
 第三期、ホミレティック、ひとたび洗礼を受けた彼らは、前に歩いた道を思い出すことによって、絶えず回心しながら歩み続けるように勇気づけられ、勧められます。何故なら、求道期間は、キリスト者の生活の完成ではなく、それを垣間見させるためなのです。
 ここに、主が私たちと共に働いて下さった簡単なまとめがあります。
 私たちは、ケリグマを全世界の小教区で宣言しています。司祭を中心に、旅人の小さなチームで行なっています。旅人は彼らの各地の小教区を出発し、手に何も持たず、持ちものを全部売り、すべてを置いて、迷ってどこかへ行ってしまった人々の心を、生きた神のところまで連れ戻すという、この新しい礼拝の奉仕に生涯を捧げます。(ロマ1、9)
 この最初のケリグマの期間において、私たちは小教区で、二ヶ月の間、心から力強く人々に真理の道であるこの苦しみのしもべに立ち戻るように呼びかけます。何故なら、まことの幸福は、イエズス・キリストの名によって、人間に与えられるのですから。この幸せは、完全に愛することが出来る、つまり、自分自身をすべて相手に与え得ることが出来るということです。理性によって、愛は真理であること、即ち自分自身を与えることによって、真の人間になることが出来ることを人は誰でも知っています。つまり、自分を忘れて他人に自らを渡すことによって。沢山の人々が迷わされたり、党派やイデオロギーに心をひかれるのは、命を捧げてまで不正に反対して戦い、またこの世の苦しみをなくそうという理想をそれらが与えるからです。私たちは、今日、教会の外にいる人々にも、教会の中にいる人々にも、あらためてキリスト教を眼の前に提示しなければならないと思っています。
 ケリグマの期間、小教区では殆どの人々は洗礼を受けているので、第二の洗礼として告解の秘跡によって、罪の赦しがあることを宣言した後、彼らを回心に招きます。つまり、司祭に告白することによってイエズスに自分の罪を渡し、その死と復活のからだによって、罪を滅ぼすように招きます。そして、赦しと按手によって、聖霊の力と神から来る罪の赦しを受け、洗礼の恩恵が再び与えられ、新しい創造に導かれるように招きます。この祭儀の終わりに、私たちは別の部屋でアガぺをします。このアガぺは、神の愛に立ち帰った人の喜び、即ち放蕩息子の宴会を現わしています。カテケジスのこの時点において、始めてみことばの宣言の最初の奇跡が現われ始めます。即ち、長い間告解の秘跡から遠のいていた兄弟は喜びに満ちて、告解に来て長年失っていた平和を発見します。ある国々では、殆ど消えかかっていた告解の秘跡そのものが再発見されています。
 カテケジスのこのケリグマティック期間の終わりに人々は司教様から聖書を授与されます。こうして、40人から50人の兄弟の共同体が生まれます。感謝の祭儀によって、道、即ち第二期(カテケティックの期間)が始まります。最初は神がご自分を人間に啓示された聖書用語の学びです。この用語は、抽象的、知識的というより、むしろ歴史的、実存的です。ですからこの学びは、講義によってではなく、司祭が司式するみことばの祭儀によってなされます。確かに、このような祭儀の中で聖霊が現われます。聖霊は私たちを聖別し、少しずつ完全な真理へ導く教師です。
 体験によって分かったことは、人々を回心させる為には、変換器が必要です。別の言葉で言えば“胎”、懐妊させる胎が必要なのです。キリスト教的小さな共同体は、まさにこの胎です。このような共同体は、いつも司祭が司式し、人々は靭帯と関節、奉仕職とカリスマでうまく組立てられた体のように教会の神秘に導かれます。共同体は頭として司式司祭、責任者または助祭、カテキスタ、子供たちの教師、やもめ、おとめ、家族等々で構成されています。使徒言行録に書かれている教会に似ている社会性の事実が、私たちの間に現われます。このことによって、みことばは、より近いもの、より現実的なものになります。
 また、共同体はあなたを手伝います。何故なら自分の事実を隠せないからです。二、三年すると、みんなお互いのことが分ってきます。欠点も出てきます。そこで、私たちは、相手が好ましくないとき、わずらわしいとき、その相手を愛するのは何と難しいかということに気がつきます。全求道期間のプログラムである山上の説教が、絶えず私たちを照らし、私たちの信仰がどれ程弱いか、私たちは、どれ程常に回心の必要があるかを示してくれます。ですから、求道期間の間、私たちは絶えず、母なる教会から信仰をいただき養なわれる必要さが明らかになります。
 洗礼を授かっている私たちは、自分の奥底の事実を示されて、洗礼の恵みを自らの自由意志によって受け取り、その恵みが成長出来るように、この求道期間の中では洗礼に至るまでにいろいろの段階があります。時間があまりないので、この求道期間の全部の段階を説明出来ませんが。栄光の十字架のカテケジス、この世の偶像の破棄、祈りの入門、使徒信経の“授与と応答”、主祷文の委託等々の段階があるのです。
 第三の期間で、何年も共に歩んで来た兄弟たちは、彼らの歴史の上に働かれた神の憐れみ、十字架上の限りない神の愛を体験します。山上の説教に照らされて、私たち自身、神の栄光を奪った者、白分が神になろうとして彼の頬を打った者であるということ、それなのに、彼は私たちのために、もう一方の頬を出された方であることに気がつきます。私たちは身体に障害のある子供を持ったとき自分が理解することが出来ないので、神を裁いて拒み、そして自分のやりたい罪を勝手に犯すための言い訳にします。他人のものを盗み、思うままにセックスを使います等々、それをやったのは私たちです。このようにして山上の説教の中で言われているロジオン“あなたがして欲しいと思うことを他人にしなさい” が分かり始めます。このみことばは、この時点において、非常に具体的な意味があります。神はあなたの罪を取り去って、何千回も赦して下さいました。あなたは生活の中で、最早この神の素晴しい愛、真理、生命を体験しましたか?それなら、行って、他人に同じようにしなさい。あなたは、この愛は真実で生命だということを体験したのなら。行って……じようにしなさい。あなたに対して悪を行う人を愛しなさい。恩知らずや、悪人にもいつくしみ深く、いと高き天の御父の子となることが出来るように。(マテオ5、ルカ6)
 このように、彼らは神の愛の中で成長していきます。信仰が成熟するに従って、喜び、賛美の心が生まれます。即ち、感謝の心、これこそ感謝の祭儀に参加する意味の中心です。
 この道は、三つの柱から成り立っています。神のみことばは毎週祝われます。毎週日曜日の感謝の祭儀は、私たちの歴史に働かれた神の契約を新らたにします。神は私たちに、どのように感謝したら良いのかを教えて下さいます。何よりも素晴らしいことは、神が私たちにキリストを与えて下さいます。キリストは、私たちのために御自分を砕かれました。私たちの主、イエズス・キリストの過ぎ越しの神秘、贖いの神秘が事実となり、このキリストの贖いによって神と和睦することが出来、私たちは、御父の愛に養なわれて、私たちの真の永遠の幸福である御旨に入ることが出来ます。三番目の柱は共同体です。
 このように、少しずつ、その小さな共同体に、相互愛、新しい愛のしるしであるコイノニア(心のー致)が現われ、その共同体は、私たちの俗化した社会に普遍的な救いの秘跡として現われます。“何と彼らは、お互に愛しあっていることか!”という叫びが再び人々の間で聞かれるようになり、神の国は私たちのうちにあるという良い便りを教会において実際に目で見ることが出来ます。この事実は、教会から離れ去った兄弟を再び教会に引き戻す程の力を持っています。ここ、ローマでも10ないし11個の共同体を持つ小教区がいくつかあります。これらの小教区では、御父の家に戻り得る道、つまり、俗化された現代人、無神論者のための道が開かれています。
 説明の終わりに当たり、この14年間、77カ国に広まった経験を説明するのは難しいので、次の三つの点でまとめさせて頂きます。
 1)新求道期間は運動、つまり従来この言葉が持っていた通常の意味での運動ではありません。人々が信仰を再発見するまでの期間です。この求道期間によって、人々を地域の教会、小教区、教区の生きたメンバーになるように導きます。
 2)カテケジスのプロセスは宣言によって始まり、この宣言は聞く人々を彼らの歴史の十字架に直面させ、その意味を照らし、その十字架と彼らを和解させます。
 3)ローマに2,000人もの主任司祭が集まり、このシノドスのために協力してくれたのと同じように、このシノドスの集まりで証言できたのは、私たちの喜びです。それは、神がなさった奇跡です。破壊されたたくさんの家庭は和解し、新しい子供を生むことを認めるようになり、沢山の若者は麻薬やテロリズムから救われました。多くの無神論者が回心しました。司祭の召し出しも沢山出ました。これは、おもに道を長く歩んだ国です。お金からの離脱、共同体の中で物を分かち合うこと。あらゆるレベル(子供たち、結婚、堅信など)で教区にカテケジスの奉仕、各々の職場での具体的な、ときには勇気ある証し等々。
 この道を示された無原罪の聖母マリアに感謝し、そして、また教皇様と私にここで話すのを許して下さったシノドスの秘書の方に感謝しながら終わりたいと思います。私は、ここに居られるシノドスの皆様に私のためにお祈り下さるようお願いします。私は罪人ですから。

キコ・アルグエリョ
 
(*)西アフリカ・カトリック・インスティテュート・アビシャン 1980.M.ド・ジャリエ氏、求道期間の小史